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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

真実の航跡

著:伊東 潤

発売日:2019.03.05
定価:1,800円(本体)+税

戦犯裁判を通して描く、日本の「曙光」。

 近年、着々と作風の幅を広げてきているのが伊東潤である。
 今回、刊行された『真実の航跡』は、日本海軍最大の汚点ともいうべき、「ビハール号事件」をモデルにした作品で、日本の重巡洋艦が商船を撃沈。多くの乗員を救ったにもかかわらず、一部を除いた六十九人を殺した、という事件である。
 この事件の被告人は二人。第十六戦隊司令官、五十風俊樹中将と、「久慈」艦長乾孝典大佐だ。弁護士として、前者には、鮫島正二郎が、後者には河合雄二がつき、物語は、鮫島の視点を中心に進められていく。
 鮫島は、「─われわれは負けたんだ。それなら勝者のルールに従わねばならない。だが、それよりも大事なのは『法の正義』ではないのか」と思う熱血漢で、書名は「私は五十嵐さんと一緒に、大海原に刻まれた真実の航跡を追いたいのです」という彼の台詞に依っている。
 凄まじいのは、六十九名の虐殺シーンである。甲板上に作った木の処刑台で捕虜の首をはね、これをことごとく海中に投げ入れ、さらに舷側の手すりがない部分に、ガス抜き台を置き、首のない遺骸をその上に載せ、遺骸を傾けて内臓を海に捨て、その後でこれを遺棄する。こうしておけば、遺骸は浮いてこないのである。
 私がここを読んで思い出したのは、かつて荒正人が南條範夫の「燈台鬼」を評していった、「残酷描写を一般芸術表現にまで純化している」ということばで、伊東潤も決して残酷さを売りものにしていない。むしろその筆致は淡々として写実的であり、それだから肌に粟を生じせしめるのである。
 では、作者が本篇で目指しているものは何か。
 この作品は多様な読みが可能な一巻だ。戦争小説、ドキュメンタル・ノベル、現代史を扱った歴史小説、法廷闘争劇等々─。
 しかしながら、法廷闘争劇としてみると、鮫島らにとっては甚だ旗色が悪い。何しろそこは、勝者が敗者を裁く場所なのだから─。
 ニヒルな河合は、これははじめから結果が決まっている裁判だといい、戦勝国=イギリスにとって、法の正義よりも大事なことは恨みを晴らすことだ、といい放つ。
 鮫島は、良き父親に恵まれなかった男で、少年期の記憶から五十嵐こそ理想の父、彼を救うことは、日本人の父性を救うことだと信じている。しかし、せっかく苦労をして連れてきた証人も不適格と否定されてしまう。
 私は、先にこの作品は現代史を扱った歴史小説である、と記したが、作者はこの一巻を組織をテーマにした作品としてとらえている。伊東潤はこういっている─まず、あるのは軍隊という名の硬直化した組織の根深い問題である、と。「つまり、下達された命令の捉え方と、それぞれの立場での『忖度』、そして個人の性格や野心が重なり、こうした悲劇が起こってしまったのです」「とくに昨今、立て続けに起こっている各省庁の改ざん問題、日大タックル問題、ボクシングやレスリング協会問題といった日本固有の組織的問題の根源が日本の軍隊に求められるのは、誰もが知るところです」と。
 作者は第二章で、サラリとだが、恐ろしいことを書いている。それは「『仰せの通りです。すべては流れに任せましょう』/─そう言って、日本は開戦に踏み切ったのではないか」「何となく流れができ上がり、日本人の大多数がその流れに乗ったという感がある」。
 これが〝忖度〟と並んで恐ろしいもの、〝場の空気〟といったものではあるまいか。
 裁判の結末がどうなったかは読んでいただくとして、鮫島の世話役のバレットはいう。「私の立場では敵も味方もありません。こうして一緒に飲んでいるのも、仕事だからではありません。われわれは、新しい世界で法の正義を守っていかねばならないのです。おそらくこの仕事が終われば、あなた方と生涯出会うことはないでしょう。しかし、どんなに遠く離れていても、われわれ法に携わる者たちの心は一つです」と。そして助手のナデラはラストでこういう─「五十嵐さんは曙光を見たのです」。
 曙光─あの日、彼らの頭上に輝いていた曙光を私たちは見ることができたのだろうか。
 いま日本の、いや世界の何処にあの曙光が射しているのだろうか。
 故城山三郎氏が「今度の戦争で得たものは憲法だけだった」
 といった、その憲法第九条は、いまや風前の灯となり、世界のあちこちで血は流されている。
 が、そんなときだからこそ、伊東潤は新たな希望の物語(それがどれだけの血を潜り抜けたものであるとしても)を紡いだのではあるまいか。ぜひ御一読を。

Writing

縄田 一男(なわた・かずお)

'58年、東京都生まれ。文芸評論家。'91年『時代小説の読みどころ』で中村星湖文学賞、'95年『捕物帳の系譜』で大衆文学研究賞を受賞。著書に『「宮本武蔵」とは何か』などがある。

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