close

物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

pc_shohyo3

最悪の将軍

著:朝井 まかて

発売日:2016.09.26
定価:1,600円(本体)+税

悪名高い徳川綱吉の悲哀、煩悩を鮮やかに描く力作。

 本書は「犬公方」として悪名の高い徳川綱吉の一生を描いた力作である。まず『最悪の将軍』というタイトルに驚いた。
 私は三十年以上元禄文芸を研究してきたが、タイトルを見たときには、実は「またか」と思った。綱吉は人より犬の命を貴んだ将軍として、とにかく評判が悪い。最近の日本史研究では、将軍親政と文治政治の観点から、綱吉治世の再評価が行われているようだが、一般には「最悪」のイメージが強い。
 私は、この小説を一気に読み終えた。そして、綱吉の寿命が尽きる場面で、著者のこのタイトルに込めた思い入れが理解できた。
 富士山大噴火を目の当たりにした晩年の綱吉が、妻・信子に「余は、やはり最悪の将軍であるのか」と問いかける。民の安寧を一心に祈る夫の姿に、信子は「徳川右大臣綱吉は断じて、最悪の将軍にあらず。/天よ、あなたがそれを知らぬとは言わせぬ」と断言する。
 そして、病床に臥す綱吉の言葉。
「扶桑の民はいかなる災厄に遭うても、必ず立ち上がる」「強き、愛しき民ぞ」
 死なんとする綱吉をこれほど美しく描いた小説はなかった。この言葉は、元禄・宝永の天災と現代とを重ねた著者の感慨でもあろう。一方で、いつの世にも権力者のもたざるをえない悲哀がある。それは、柳沢吉保が信子に伝えた綱吉の最期の言葉「我に、邪無し」に集約される。思いだけでなく、行いにも「邪」がなかったという綱吉の自負は、「正邪」の相対性を考えれば、絶対的「正」に命をすり減らした綱吉の悲劇ともなる。
「犬公方」と揶揄される己自身への懊悩。生類憐れみの令以外にも、大老酒井忠清の追い落とし、越後高田藩のお家騒動、堀田正俊斬殺事件、赤穂浪士の討ち入り等、歴史的事件に対する綱吉の苦悩が、本書では丁寧に描かれる。綱吉の誠実さが描出されるほどに、前述の悲劇が浮き上がってくるのだ。絶対的権力を志向した綱吉の煩悶が、これほど鮮やかに描かれた小説を知らない。
 綱吉を取り巻く人々の中で、もっとも印象に残ったのは、母・桂昌院と信子である。出自の異なる二人の個性は対蹠的だが、ともに魅力あふれる女性として活写されている。十四歳で嫁入りした信子と十九歳の綱吉との、『源氏物語』を踏まえた機知に富んだ会話。さらに、阿蘭陀商館の医師ケンペル謁見の際の、綱吉と信子のやり取りは、二人の愛情と信頼とを見事に表現している。
 大地震と富士山が噴火した宝永四年。その晩年の綱吉に信念をもって寄り添ったのは、前述のように信子だった。綱吉の没後、柳沢吉保が信子に「政の目指すところとその果には、必ず齟齬が生じまする。(略)それを判ずるには時を要します」と述べる。著者の史観は、この一言に読み取ることが出来よう。

Writing

中島 隆(なかじま たかし)

‘52年長野県生まれ。早稲田大学教授(日本近世文学)。小説家。

著書に『郭の与右衛門控え帳』『はぐれ雀』

閉じる