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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

幻の旗の下に

著:堂場瞬一

発売日:2021.10.26
定価:1,980円(税込)

スポーツの祭典が問いかけるもの

 東京五輪が開催されるはずだった二〇二〇年、突如現れたコロナ禍によって、大会は一年延期と決定された。批判や混乱もあったが、多くの人が待ち望んだ大会は失われてしまった。


 堂場瞬一はこの時、八十年前に中止となった一九四〇年の五輪、いわゆる「幻の東京五輪」のことを即座に思い出したという。東京五輪を歴史社会学的に研究してきた評者も同じことを考えていたが、人々の喪失感には目を向けてこなかったことに気がつかされた。堂場はここに、イベントがなくなっても挫けず、未来を探そうと足搔いていた人々の足跡、すなわち、東亜競技大会の開催をめぐる物語を描いたのである。


 『幻の旗の下に』は、大日本体育協会で、理事長秘書を務める石崎保と、ハワイの日系人野球チーム・ハワイ朝日で、マネージャーを務める澤山隆が、野球を介した友情を通じて困難な状況を切り開きながら、東亜競技大会の開催を目指す物語である。


 今作には実在した人物がフィクションとして登場する。史実を元に、あれこれ考えをめぐらすのが面白い。一九三八年に東京五輪の返上が決まった後、石崎は体協会長の下村宏と理事長の末弘厳太郎から問いかけられる。このままでは大会準備に費やした経費や、建設途中の競技場も無駄になってしまう。国主導で紀元二千六百年の記念行事が進められていく中で、体協が取り残されるわけにはいかない。どうしたらよいか考えよ。


 石崎が何気なく発した答えは、五輪に代わる大きな大会を開催すること。しかし、その発言が事態を大きく変える。後に、日本が東洋の盟主であることを宣言し、国民体育の奨励を掲げる東亜競技大会の開催につながっていく。加えて彼が提案したのが、国民に人気のある野球をこの大会に加えることだった。


 戦前の野球は、現在の高校野球にあたる全国中等学校優勝野球大会、東京六大学野球が人気を獲得していた。なかでも早稲田や慶應は、海外遠征でアメリカ、ハワイ、フィリピンなどと対戦しながら技術を学び、実力をつけていったのである。


 一方、もう一人の主人公・澤山はハワイに居住する日系移民の二世である。パイナップル農場と缶詰工場の経営で成功した両親を持ち、そのおかげで彼は日本に留学し、野球をすることができた。彼の属するハワイ朝日は実際にも日本チームと度々対戦を行ってきた歴史を持ち、日本の野球史には切っても切れない存在である。


 その澤山の元に、石崎から電報が届く。


「六月に行われる東亜競技大会にハワイ朝日を招待する。費用は当方持ち。詳細は手紙にて」


 計画には様々な障壁が立ちはだかる。戦時下で華美な行事を嫌う軍部とその威光を無視できない各省の大臣たち、五輪種目が中心の体協理事の面々に野球の開催を認めさせること、チームメイトの説得……。緊迫の場面が次々訪れ、簡単に行き来ができない二人の距離がもどかしい。運動部の同窓意識が非常に強かった当時、野球部の人脈が徐々につなぎ合わされていく。


 この時代に始まったもう一つの野球が日本職業野球で、この物語の伏線となる二人の選手が所属する。実力があったとしても、プロに進んで野球をするのか、それ以外の道を選ぶのかで人生の岐路に立たされる、そんな時代だった。石崎もまた甲子園に出場し、六大学でも活躍をした経歴を持つものの、選手としての道はあきらめ、体協を選んでいた。


 史実に照らし合わせると、日本は一九一二年から五輪に出場を続け、ロサンゼルス、ベルリン大会でメダル大国の仲間入りを果たした。国威発揚を行いながら、人々の熱狂を生み出してきた五輪は、大日本体育協会会長の嘉納治五郎が夢見た自国招致を成し遂げたものの、やがて幻となった。


 五輪返上後に浮かんできた東亜競技大会が、東洋の盟主をうたって政治と連動してくる一方で、純粋に実力を競う、友好的なスポーツの祭典にしたいと考える選手、関係者は必ず存在したはずで、両者の衝突がこの物語の背景にはあるだろう。


 二〇二一年に開催された東京五輪は、多くの人に望まれない形で終幕した。スポーツに携わる人々のメッセージはあまり伝わって来なかったと思わずにはいられない。この作品は東京大会に対する堂場の問いでもあるだろう。石崎や澤山のような挑戦があったのか、五輪は何を実現しようとしたのか。


 そして最後の石崎と末弘の対話は示唆的だ。大会開催を勝ち取るために末弘が


口にするスポーツの効能、すなわち、国威発揚のため、日本人の誇りのため、皇国の戦士を作るためと言わなければならなかった建前に対する石崎の反論。


「あくまでスポーツは政治経済とは別物だと思っています。その原理原則を推していただきたかった」


 理想と現実の狭間に揺れながら、私たちに多くの問いを突きつけた東京五輪。東亜競技大会の開催に奔走した若者たちの物語を読みながら、改めて考えたい。

Writing

石坂友司(いしざか・ゆうじ)
研究者。奈良女子大学研究院生活環境科学系准教授。専門はスポーツ社会学で、五輪が社会や地域にもたらす影響について、研究を続けている。単著に『現代オリンピックの発展と危機』『コロナとオリンピック:日本社会に残る課題』、共編著に『未完のオリンピック』、共著に『幻の東京オリンピックとその時代』など。

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