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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

対になる人

著:花村萬月

発売日:2021.4.26
定価:2530円(税込)

二重に仕組まれた 迷宮のような物語

解離性同一性障害はかつては多重人格障害と呼ばれ(現在でも通俗的な意味合いではこの言葉が使われることも多い)、深刻な精神的ストレスなどの原因により、さまざまな役割を担った複数の人格が同じ人間の中で交代しながら出現する症例であり、文芸や映像作品の題材としてよく見かける。


 現在ほど精神医学が発達していない時期の作例としては、一九世紀に発表されたロバート・ルイス・スティーヴンソン『ジキル博士とハイド氏』が古典として抜群の知名度を誇るし、二○世紀のロバート・ブロック『サイコ』はアルフレッド・ヒッチコック監督による映画化で異常心理サスペンスの代名詞と化した。最近では宮部みゆき『この世の春』が、時代小説において解離性同一性障害を描くという意欲的な挑戦で話題を呼んだ。現実に起こった出来事を描いた作品としては、ダニエル・キイスの『24人のビリー・ミリガン』が最も有名だろう。


 そんな中、花村萬月の新刊『対になる人』は、解離性同一性障害を扱った作品としてはかなりユニークだ。


 作中には語り手「私」として、菱沼逸郎という小説家が登場する。札幌でマンションを購入した彼は、地元新聞社文化部の部長からクラブで接待された際、ママの齊藤紫織を紹介される。札幌有数の実業家だという彼女は、スープカレーの店も経営しているらしい。翌朝、菱沼は紫織からそのスープカレーの店に誘われ、同じマンションに本格的な調理研究室も設けていることを知るが、そこでの彼女のとりつく島もない態度は、昨夜のクラブでの気を逸らさぬ人当たりの良さとは異なり、ストイックな化学者のようだった。


 その後、菱沼は紫織と急速に打ち解けてゆく。やがて、菱沼は彼女と会うたびに、相手の態度に微妙な違和感を覚えるようになる。そして紫織と男女の間柄になったあと、彼女の秘密を知る。彼女の中には多くの人格が潜在しており、表に出ている人格が齊藤紫織を称しているのだ。調理研究室のあかり、女子高生のさゆり、死にたいと訴える幼い子供のひかり―。


 紫織には夫と娘がいるが、その夫から暴力を受けているという。また、紫織は十七歳の時、自分に靡かない彼女を憎む中学時代の同級生にけしかけられた不良少年たちに輪姦されたという辛い過去を背負っていた。


 解離性同一性障害は、虐待や苦痛などの耐え難い状況から自身の精神を守るため、無関係な第三者であるかのように感じることで精神の本格的な崩壊を防ぐ技法の中でも、最も複雑なものである。紫織が多くの人格を内面に生み出すようになったきっかけは、少女時代の輪姦体験が初めてというわけではなく、それ以前にも彼女の心を傷つける深刻な出来事があった。また、現在の彼女の精神状態には、夫によるDVが少なからぬ影響を及ぼしているらしい。


 菱沼は彼女(たち)との交流を通して、精神の迷宮に分け入り、その治癒を試みてゆく。菱沼は解離性同一性障害に一定以上の知識を具えているとはいえ、精神医学者ではないので、紫織との向き合い方も型破りだ。例えば、医師は解離性同一性障害の治療に際して患者と距離を保たねばならず、性行為は御法度なのに対し、菱沼は紫織(たち)との性的な関係を通じてセラピーを行うというのが本書のユニークさだ。菱沼との合意による性行為が、強引な性行為への恐怖を取り除くことになるのである。


 興味深いのは、菱沼に「悪い逸郎」と名付けられたイマジナリーフレンドがいる点だ。イマジナリーフレンドと聞くと子供時代特有の存在というイメージが強いけれども、還暦を過ぎた逸郎のような成人が、もうひとりの自分と対話することも珍しくないようだ。紫織のような深刻なケースではなくとも、解離という心理作用が誰にでも起こり得ることを本書は物語っている。


 そしてこの小説を読み終えたあと、読者は新たな驚きに接することになる。著者のあとがきによると、この物語はある程度事実に則しており、齊藤紫織にもモデルがいるというのだ(小説において紫織が迎える結末は完全にフィクションだが、過去の出来事は彼女の実体験を踏まえているらしく、彼女を解離性同一性障害に追いやった卑劣な男たちも実在しているという)。作中、人格が交代すると紫織の傷跡が消えたり、何もしていないのに電球が点滅するなど、解離性同一性障害だとしても不可解な一連の現象が描かれているけれども、もしそれも事実を反映しているのだとすれば、精神の神秘は物理的な法則をも超越するものなのだろうか。それとも、このあとがき自体が、虚実の境界線を揺るがせる仕掛けなのだろうか。読後に尾を引くこの何ともいえぬ不可思議な余韻は、精神の迷宮をトリッキーに描き出す文学的技法の迷宮という、二重に仕組まれた迷宮のなせるわざなのだ。


 

Writing

千街晶之(せんがい・あきゆき)
'70年北海道生まれ。著書に『原作と映像の交叉光線』、編著に『21世紀本格ミステリ映像大全』など。

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