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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

大人は泣かないと思っていた

著:寺地 はるな

発売日:2018.07.26
定価:1,600円(本体)+税

静かな強さで前を向く「普通」

 今まで読んだ小説の中でいちばんお酌のことが出てきたというぐらい、本書にはよくお酌が出てくる。もっとも登場の頻度が高い農協の共済課に勤務する時田翼三十二歳は、特に仕事に熱意があるわけではないが、今の職場で出世がしたいと考えている。理由はお酌警察を撲滅するためだ。翼が居住している九州の耳中市という場所では「飲み会の席でお酌をしない女は女に非ず」という考えがまかり通っているらしく、酒量の多い父親を持ちながらも、自分自身は菓子作りが趣味であるような翼は、この文化を「お酌警察」と名付け疑問を持っている。
 お酌に代表されるように、本書ではある地域における伝統的な男女の役割の差異が明確に記される。ある人物が物語の終盤で痛感するように、衰退しつつある日本の習慣を描いているというようにも思えるのだけれども、現実はまだまだいくらでもこんなもんだと思う。すごく仲がよいわけでもないけどとりあえず宴会をして騒いで、そこにいない人のことをああだこうだと言い合って、女がいたらお酌をさせて、何か通じ合った気分になる。本書はそういうことが主流である場所に生きながら、その外側にいる、またはそこから精神的に自立しようとする人々の物語である。
 酒を飲み過ぎている翼の父親、離婚した母親、隣の家の孫の小柳レモン、彼女の義父、友人の鉄也、その婚約者の玲子、職場の女性である平野さんといった多彩な登場人物たちは、現代の日本の普通の人々でありながら、「普通の人たち」という雑な物言いでは説明できない丹念な濃淡で描かれている。
 本書は短編それぞれに主要な視点人物がいるけれども、個人的には翼の隣に住む田中絹江や、小柳レモンの義父の小柳さんといった「語られる側」の人物たちがとても興味深かった。田中絹江が登場する一話目では、どこか素っ頓狂な理由で夫と離婚した印象を持つ翼の母親もまた、家にいた頃には表出しなかった田中絹江との関わりが明らかになり、四話目ではその心情が語られることになる。鉄也の母親が酔っぱらった時の「うちの男たちはみーんな声が大き過ぎるのよー」という指摘の裏にある小さな声、声にならない声、そして大きな声の大元にある揺らぎが余すところなく語られながら、それぞれの登場人物はささやかな一歩を踏み出す。誰もが生まれ育った土地でそれぞれの屈託と喜びを抱えている。ことさらに逸脱した劇的を演じることもなく、これから何かを失うかもしれないという予感と覚悟もはらみながら、日常の中で静かに前を向く彼らを応援したくなる。

Writing

津村 記久子(つむら・きくこ)

'78年大阪府生まれ。'11年『ワーカーズ・ダイジェスト』で織田作之助賞、'16年『この世にたやすい仕事はない』で芸術選奨文部科学大臣新人賞、'17年『浮遊霊ブラジル』で紫式部文学賞を受賞。最新刊は『ディス・イズ・ザ・デイ』。

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