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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

チンギス紀 十 星芒

著:北方謙三

発売日:2021.3.26
定価:1760円(税込)

草原を離れて

チンギス・カンを描く大作『チンギス紀』の第十巻「星芒」が刊行される。


 全五十一巻からなる〈大水滸伝〉シリーズでは、楊令が物流網を管理運営する新たな国の形を提示したり、楊家に伝わる家宝・吹毛剣が、楊令の息子の胡土児によってモンゴルに運ばれたりするので、北方謙三が、各地を移動しながら暮らす遊牧民で、モンゴル族キャト氏出身のチンギス・カンに着目したのは、必然だったのかもしれない。


 壮大な物語は、三年前に父イェスゲイをタタル族に殺された十三歳のテムジン(後のチンギス・カン)が、ささいな諍いから異母弟ベクテルを斬って故郷を離れる場面から始まる。放浪の途中で少年ボオルチュと出会ったテムジンは、女真族の国・金の大同府にたどり着き、妓楼と書肆を営む蕭源基の下で働き始める。


 故郷で暮らせなくなったテムジンが、蕭源基が勧めてくれた『史記本紀』を読んで見識を深めるところは、乱暴狼藉などが禍して故郷を追われた宮本武蔵が、沢庵和尚に姫路城に幽閉され、そこで万巻の書物を読んで己の愚かさを悟る吉川英治『宮本武蔵』を彷彿させる。剣の修行を通して精神を高める武蔵を描いた吉川『宮本武蔵』は教養小説としても評価が高いが、これは『チンギス紀』も同じで、父の死によるキャト氏の弱体化というマイナスからスタートしたテムジンが、逆境をはねのけ成長するところは、秀逸な青春小説となっている。


 故郷に帰ったテムジンは、父の悲願だったモンゴル族の統一に乗り出すが、その道のりは決して順風満帆ではなく何度も敗北を経験、特に精鋭の五十騎を指揮し合戦の勝敗を左右する傭兵の玄翁には苦杯を嘗めさせられる。それでも諦めたり、絶望したりせず、理想を実現する方法を模索し続けるテムジンの姿は、失敗を恐れ小さくまとまりがちな若者に向けて、大きなチャレンジをして欲しいというメッセージを出しているように思えた。


 テムジンは、モンゴル族ジャンダラン氏のジャムカと強い絆で結ばれるが、やがて金との同盟をめぐって決別。軍制を改革し、大軍を維持するために経済力や科学技術といった国力の増強もはかる戦略家のテムジンと、前線での直感的な部隊の運用ではテムジンを凌駕する戦術家のジャムカの友情と決別は、物語を牽引する大きな力になっている。


 モンゴル族は、定住していないので都市がなく、戦闘は氏族単位、家内制手工業以上の産業はなく、部族の掟はあるが法はなく、物々交換なので貨幣がなかった。大同府で見聞を広めたテムジンは、氏族で編成されていた百人隊を解体し、戦力が均等になるよう再編し、そのリーダーに槍の達人のジェルメ、弓の名手クビライ・ノヤンら名将を置いた。また軍事力の増強にも、経済発展にも使える鉄を作るため、鉄鉱石を採掘して武器や商品に加工するシステムを構築し、交易をするための道路を造り、法律、貨幣経済を導入するなど内政の充実をボオルチュに命じる。北方謙三の歴史小説は、常に理想の国家とは何かを描いてきたが、プリミティブな社会が巨大な国家へと発展する『チンギス紀』は、その集大成といっても過言ではなく、政治・外交ドラマや経済小説としても楽しめるはずだ。


 第九巻「日輪」で、ジャムカとの因縁の対決に決着をつけたテムジンは、ついに名をチンギス・カンに改めた。そして第十巻「星芒」では、遠征事業が始まる。


 これまでの合戦は、騎乗した猛将が敵を蹴散らしたり、騎馬隊が自在に陣形を変えながらぶつかり合ったりするスピーディーな戦闘が中心だったが、敵都市の攻略が行われる本巻では、城を包囲する歩兵、攻城兵器を使う工兵が投入され、戦場の緊迫感はそのままに様相が一変。戦う相手も共通する価値観や宗教観を持つ「草原の民」から、異民族、異教徒へと変化している。こうした異文化との接触を象徴するのが、本巻で重要な役割を果たすイスラム教のホラズム・シャー朝出身のジャラールッディーンである。


 チンギス・カンは、外国に兵を送り版図を広げていくが、決してモンゴル族の価値観を押し付けることはない。一つの国家体制の中に、異なる文化、価値観、宗教を共存させるチンギス・カンのビジョンは、まさに今後の日本が目指すべき理想といえるだろう。


 第八巻「虎落」くらいから、チンギス・カンと心を通わせた人物が一人、また一人と命を落としていくのでせつなく感じられるが、弟のテムゲ、息子のジョチなど、次世代を担う人材が着実に育っている。強力なカリスマ性を持った英雄が一代で大国家を築いても、有能な後継者がいなければすぐに瓦解することは歴史が証明している。自分の一族にリーダーに相応しい教育を施すだけでなく、学問所を設置して女性も含め幅広く人材育成を行ったチンギス・カンの施策は、教育格差が広がり、少子高齢化により先人が蓄積した知識や技術の継承が難しくなっている現代日本の状況に、一石を投じていることも忘れてはならない。


 チンギス・カンによる西域、イスラム教圏への侵攻は、これから本格化する。ますます進む異文化との交流を北方謙三がどのように描くのか。今後の展開を楽しみにしたい。


 

Writing

末國善己(すえくに・よしみ)
文芸評論家。1968年、広島県生まれ。時代小説やミステリーを中心に評論、解説、アンソロジーの編著を手がける。最新の編著は「朝日文庫時代小説アンソロジー『いのち』」。

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