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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

るん(笑)

著:酉島伝法

発売日:2020.11.26
定価:1,800円(本体)+税

ネガティブワードが書き換えられたユートピア

いつごろからか、ビジネス関連の記事で人材を「人財」と表記した文章を頻繁に見かけるようになった。字面が変わっただけなのに、なんとなく前向きなイメージを醸しだす。印象は良くなるかもしれないが、肝心なことをごまかしているようにも見える。文字だけ財産になっても、組織に利益を生み出す材料として使い捨てられる人は後をたたないから。『るん(笑)』も、ある忌み言葉をポジティブに変換したものだ。


 著者の酉島伝法は『皆勤の徒』と『宿借りの星』で日本SF大賞を二度受賞した気鋭。誰も見たことのない異世界、チャーミングな異形の生物を創造する手腕は既に知られている。最新作の『るん(笑)』は、リアリズム小説が好きな読者にも熱烈推薦したい。舞台は人々が〈心縁〉でつながり、病気は〈丙気〉と呼ばれ、代替医療が主流になった世界。スピリチュアルや陰謀論がはびこる今の日本の現実を濃縮還元した連作小説集だ。「三十八度通り」「千羽びらき」「猫の舌と宇宙耳」の三編を収める。


 ネガティブワードがことごとく書き換えられたユートピアで、それぞれの話の主人公は違和感を抱えて暮らしている。まず「三十八度通り」の土屋は、一カ月以上も三十八度の熱が下がらない。しかし妻の真弓は土屋が解熱剤を飲もうとすると激怒する。クスリに頼るのは、自分の体を信じていないことになるからだ。真弓が土屋を非難するときの〈免疫力の……立場〉〈気持ち、なぜ考えてあげない〉というセリフに笑いながら戦慄してしまう。彼らの共同体では、病院も医者が処方するクスリも悪と見なされ、水道水を龍のウロコで浄化した〈閼伽水〉が万能薬のように重用されている。科学的に効能が証明されている薬品を否定し、免疫力に共感を寄せる真弓も、ここでは一〇〇パーセント正気の常識人なのだ。


 真弓が愛情を込めて手作りした免疫力を高める水を飲んでも、土屋の体調は回復しない。当然だ。発熱の原因を無視した呪術的な対策しかとっていないのだから。真弓と別れた土屋は、ようやく病院へ行こうとするが……。平熱の定義すら変わってしまう結末と似たようなことが、国家から家庭まで、いろんな場所で起こっていると考えずにはいられない。信じたいものを信じ、不都合な事実をなかったことにするためなら、人間は積極的に記憶を改竄するのである。


 次の「千羽びらき」は、真弓の母・美奈子の〈これほどの安堵に解きほぐされたのは初めてだった〉という感慨で始まる。家族は病院を〈病気をつくるところ〉と見なしているが、美奈子は人間ドックを受けたらしい。医者に〈体じゅうが蟠っていて、かなり重篤な末期の状態にある〉と診断される。〈蟠り〉は癌のことだと容易に推測できる。美奈子は自分が末期癌とわかって、〈これほどの安堵に解きほぐされたのは初めてだった〉と感じている。なぜだろうか。


 美奈子が息子に〈ポエム〉を買ってきてほしいと頼んだというくだりから、彼女の半生が繙かれていく。不特定多数の読者を想定して出版された本は絶滅寸前で、書店も減少しているという現状が明らかにされるが、美奈子の若いころは違っていたようだ。夫と出会った日にたまたま手にとった詩集を大切にしていたという。美奈子が〈誰でもないと書いたひと〉と語っている詩人は、エミリー・ディキンソンではないかと思われる。十九世紀アメリカを代表する詩人だ。生涯結婚せず家に引きこもり、無名のまま五十五歳で亡くなったが、死後に見つかった作品が高く評価された。最も有名な詩の一節が“ I'm Nobody! Who are you? ”。美奈子は好きな本がいつのまにか消えた世界に順応して生きてきたつもりだったが、死病に直面して抵抗をおぼえるようになった。まともな治療の代わりに贈られた千羽鶴を開かされるのはおかしいと気づいているのだ。だから飼うことが禁じられている猫を求める。その姿は家族全員が信仰しているキリスト教を受け入れきれず、魂の自由を求めたというディキンソンと重なる。美奈子の安堵は、苦しくても自分の真実を発見できたことに対する安堵なのかもしれない。


 最後の「猫の舌と宇宙耳」は、真弓の甥で小学生の真が主人公だ。昔の地図にはなかった山、人類の身代わりになった龍、父親が造っているいつまでも完成しないハコモノ……。どうして人々は〈心縁〉に支配され、忌み言葉を次々と増やし、本や猫を葬り去ったのか。子供の視点で世界の謎が描かれる。ニセ科学、ニセ医学、偽史が浸透した世界で生まれ育った真の使う言葉は、日常的で懐かしさもありながら、強烈に異界を感じさせる。真が汚れた便器を素手で綺麗に〈させていただく〉場面は、実際にある学校が行って美談として報道された出来事を想起させるのでゾッとした。ファクトを蔑ろにして見たいものしか見ない社会の延長線上には、きっとこんなディストピアが広がっているのだろう。

Writing

石井千湖(いしい・ちこ)
'73年佐賀県生まれ。書評家。著書に『文豪たちの友情』、『きっとあなたは、あの本が好き。』(共著)などがある。

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