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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

人間界の諸相 木下古栗 掌編連載

アメトーク読書芸人で取り上げられ注目を集める木下古栗。
ナンセンスの極北を描く鬼才による初の掌編連載。(ときどきエッセイも公開。)

次回は8月17日(木)に掌編を更新予定です!

活字市場

 菱野時江は夜明け頃、むくりと起床して枕元の携帯端末を手に取り、看護師向けのスケジュール表を確かめた。昨日の「休み」と明日の「明け」に挟まれた今日は「夜勤」となっており、その備考欄には何も記されていない。あくびをしながらベッド脇のカーテンを開け、外を眺めやると林立するビルやらマンションやらの上、ほのぼのと明るむ空は気持ちよさそうな快晴の兆しを湛えている。一方、室内の卓上には乱立するビールやチューハイの空き缶のほか、見るからに買い込まれたスナック菓子、菓子パン、カップ麵、コンビニスイーツ類の空き容器や包装が見え、いささか食生活荒廃の様相を呈していた。「休日の暴食ジャンク過ぎた……」と時江はその惨状を撮って写真共有SNSでつぶやき、やや頭が重そうに洗面所に入って鏡の前に立つと、そこに映る自分のむくんだ顔を死んだ魚のような目で眺めながら、ハリツヤのない頰にそっと手先をあてた。「字味に富むものでも摂取するか……」
 約三十分後、手早く身なりを整えた時江は自宅マンションを出、最寄り駅の改札をピッとくぐって、まだ快適に空いている地下鉄に乗り込んだ。それでも平日ゆえ、早朝出勤と思しき姿がぽつぽつと間を空けて座席に陣取り、いずれもスーツやビジネス向けコートなど折り目正しい格好をしている。一方で時江はシャンパンゴールドのジャージに白いレザースニーカー、さらにマスク装着のうえ野球帽を目深に被り、やや異彩を放つ風体だった。少しばかりそのツバを上げて車両を端から端まで見渡せば、他の乗客たちは居眠りは別として、携帯端末をいじっている者が圧倒的に多く、仕事の書類や勉強のテキストらしきものを読み込んでいる姿も見受けられたが、本や雑誌をめくっているのは斜め前のたった一人─それも怪しげな脳科学者による安手の自己啓発本のようだ。時江はやれやれとばかりに溜息をつき、リュックから一流文芸出版社発行の週刊誌を取り出すと、心が汚れるようなゴシップやスキャンダルを扇情的に書き立てた下品な世俗感満載の誌面を開き、目を閉じて瞑想に耽り始めた。
 ほどなく別路線の地下鉄に乗り換え、数駅を経て「活字市場」に到着した。駅近のコンビニで「1日分」と銘打たれた野菜ジュースを景気づけに飲み干すと、時江はポエムや名言の豊富な一般向けの場外市場には見向きもせず、さっそく塀に囲まれた場内に入り、活きのいい文字の連なりを買付人に向けて箱売りする仲卸業者たちの店を見て回る。とりわけ賑わう時事屋には「不倫」「暴走老人」「薬物」「ブラック企業」といった豊作の文字列が躍り、経済商店には「デフレ」「緊縮財政」「人口減少」「超高齢化」といった気が滅入る文字列がてんこ盛りで、おのずと今の世相が伝わってくるそうした品揃えを横目に眺めながら、時江は人波に乗り、市場の看板かつ中核をなす社会経済系の売り場を通り抜けていく。そのうちにテクノロジーやビジネスの界隈に入り、「AI」「VR」「技術的特異点」「火星旅行」といった文字列の飾られた未来御伽噺店、「ストーリー」「共感」「感動」「ソーシャル」といった文字列が前面に押し出されたマーケティング商店に冷ややかな一瞥をくれて素通りした直後、時江はふとビジネス用語産の前に立ち止まり、「アサイン」「コミット」「ペンディング」「リスケ」といった文字列の盛られた箱々のひとつから、物慣れない様子で「アサイン」を取り上げてみた。じっと見つめながら首をひねり、箱にそっと戻した。それから時江はさらに奥の、より取り扱いに注意を要する品々の売り場に進んでいった。
 顔の下半分を覆うマスクの下、「雰囲気」「出生率」「殺生」「古文書」といった文字列をぶつぶつ音読しながら誤読屋を通り過ぎると、その隣には誤用屋もあり、「すべからく」「確信犯」「役不足」「憮然」といったお馴染みの文字列が盛り沢山だったが、それらに混じって「アナル」売りの箱が見え、時江は俄然驚いた表情で覗き込んだ。よく見ると「名詞産」と書かれた札が添えられており、たしかに誤用屋の取り扱いで間違いなかった。その先の差別語屋には「土人」「気違い」「ジャップ」「ホモ野郎」といった文字列が並んで殆ど誰も寄りつかず、罵倒語屋は「クソ」「クズ」「カス」「ゴミ」「バカ」などを含む文字列ばかりで、あまり多様な取り揃えとは言えなかったが、Tシャツ業者向けか、「FUCK」「SHIT」「SUCK」「CUNT」などを含む英語産の、どこか活を入れられるような文字列も見受けられた。とはいえそれらを眺めるうちに、時江はやや刺激がつらそうに目をしばたたかせ、リュックの外ポケットから黒レンズのサングラスを取り出すと、有害な線を選択的に不可視化するそれをかけて、その種の店の並びを通り過ぎた。そしてさらに奥へ進んでいった。
 やがて時江はひょいと爪先立ちになり、ツバを後ろ向きに野球帽を被り直しながら少し先の行き止まりの片隅を見渡すと、「あった」と小さく声に出すなりすたすたと歩み寄って、ピンクの箱が目印の卑猥語屋の前に立ち止まった。サングラスを前頭部に上げて目を輝かせながら、陳列された品々をひとわたり眺め回す。すると特に目立って「熟女」という文字列が色めいていた。
「おっ、お嬢ちゃん、随分と色気のある格好してるね」と店主が気さくに話しかけてきた。「何かお探し?」
「何か精のつくものでもあるかなと思って」と時江はマスクを顎に下げ、照れ臭そうに微笑んだ。「熟女がいっぱいですね」
「うん、これがまあ今の潮流だね。熟女、それと人妻が多い」
「へえ、私はまだどっちでもないからなあ……」と時江は悩ましげに言って、腰を屈めて両手を膝に置き、ふたたびピンクの箱の数々をじっくりと眺め回した。「でもやっぱり、この辺のAV産のやつは活きがよさそうですね」
「あからさまに破廉恥で品性下劣だからね。やっぱりこの分野が本来、言葉に一番力があるんだよ。ただ正直、全然儲からないんだけどね、ネットのせいで……みんなちゃんと有料の動画配信サイトにお金を落としてくれればいいんだけど、もうモラルが崩壊してるっていうか、そもそもそんなものないんだろうね……」
 悲しげに嘆息する店主を見て、時江も神妙な面持ちでうつむいたが、しかし束の間の沈黙の後、気を取り直すように顔を上げた。「あの、この辺のやつ、そこそこの量をまとめ買いしたいんですけど、詰めてもらったりできましたっけ?」
「ああ、いいよ。ただし全部タイトル売りで単語ごとのバラ売りはなし」と店主は答え、後ろから空き箱を取った。「言ってくれればこれに詰めてくから」
 時江はこくりと頷き、顎に手先をあてて眼下の品揃えを見定めていった。
「ええと、じゃあまず、この『パン透けデカ尻タイトスカートの肉感BODY人妻限定 もうタマらん!! 桃尻観察で奥様発情&勃起カッチコチ!! 我慢限界でチ○ポをズボ挿入で問答無用の中出し決行!!』と、この『アジア大会準優勝アスリート人妻 超人軟体ボディびっくびく仰け反り性交』も。それとこの『媚薬浣腸エビ反り噴射BEST』と『本気汁が白濁するまでイカされるねっとり濃厚ファック』もください。あ、あとそこの巨乳OLのやつとエロハプニングのやつも。それとマジックミラーの美容部員のやつと、あとその……」
 卑猥な言葉の連発にさすがに頰が赤く染まり、途中から省略して呼ぶようになりながらも、時江はすっかり目利きの顔をして次々に指さしていき、店主はそれを手際よく箱に詰めていった。
「ああ、なるほど、お嬢ちゃん通だね……」とやがて店主はにやりとして、ついと時江の前を離れると、周囲から見繕ってきた二タイトルを勝手に包んで追加した。「いっぱい買ってくれるから、これはおまけ。片方はちょっと訳あり品だけど、気にしないなら普通にいけるから」
「いいんですか?」
「いいよいいよ。少し色も付けとくから」
「ありがとうございます!」
 それから時江は店の奥の帳場に行き、リュックから『学問のすゝめ』と『福翁自伝』を取り出して支払うと、お釣りに『たけくらべ』一冊と野口英世の伝記三冊を受け取った。

 帰宅した時江はうがい手洗いを済ませるなり、さっそくジャージの上を脱ぎ、代わりにエプロンをつけて台所に立った。そして箱の中から購入した活字群をひとつひとつ取り出しては俎上にのせ、切れ味鋭そうな出刃包丁を手に握る。まず『パン透けデカ尻タイトスカートの肉感BODY人妻限定 もうタマらん!! 桃尻観察で奥様発情&勃起カッチコチ!! 我慢限界でチ○ポをズボ挿入で問答無用の中出し決行!!』の「パン透けデカ尻」の直後に切っ先をあて、手前から奥へ滑らせるようにして、ぐぐっと切り込んでいった。さすがに肉厚の手応えがあり、力をこめてそこを切断した後、今度は「タイトスカートの肉感BODY人妻限定 もうタマらん!! 桃尻観察で奥様発情&勃起カッチコチ!! 我慢限界でチ○ポをズボ挿入で問答無用の中出し決行!!」のイとトの間に刃先をあて、同じように切ろうとしたが、異様な硬直感があって碌に刃が入らない。そこで時江は重々しい厚刃の中華包丁に持ち替えると、躊躇なくそれを振り下ろして刃先をざくっと食い込ませ、食い込んだまま持ち上げて、補助の手を上から添えてまな板にがつんと叩きつけた。「本当にカッチコチ……」と文句ともなくつぶやきながら、気色ばんで何度か叩きつけるうちに、どうにかこうにか切り離すことができた。時江はふうと溜息をつき、切り取った不要な部分はごっそりゴミ箱に捨てると、次いで『アジア大会準優勝アスリート人妻 超人軟体ボディびっくびく仰け反り性交』の三文字目の前に刃を入れて、頭二文字を切り取った。これも残りの部分は廃棄した。『媚薬浣腸エビ反り噴射BEST』と『本気汁が白濁するまでイカされるねっとり濃厚ファック』は双方ともによく洗ってから、狙い定めたところを切り取り、やはり残りはゴミ箱に放り込んだ。さらに『サバサバしたムチムチ巨乳OL 最初は余裕たっぷりだったのが、寸止めされまくって限界チ●ポ堕ち!』からも、『単刀直入! マンコ見せて下さい!! サーモンピンク&ショッキングピンク』からも一部だけを切り取った。『もう死んだってかまわない! 超ラッキーの連続で巻き起こるスケベ過ぎる一日! 鼻血が止まらないくらいの夢のエロハプニング続出!』は少し血抜きしてから、必要な部分を切り離した。『マジックミラーの向こうには職場の上司 SEXできたら即賞金!! 美人美容部員&営業マンが上司の目の前でオイルマッサージにチャレンジ! 不慣れな手付きにビクビク感じてしまう敏感ボディ美容部員ヌルヌル勃起チ○ポを素股してたら…』はその殆どがゴミとして切り捨てられたが、そのうえやけにヌルヌルして、不要部分を手づかみでゴミ箱に放り込んだ後、時江は石鹼でしっかり手を洗わなければならなかった。最後に『むちむち奥様ハメ撮りSP 肉厚トロトロ中出し編』にも慎重に包丁を入れた。
「豪華豪華……」
 時江はホクホク顔で切り取った文字列を紙皿に綺麗に盛りつけると、今度は箱の中から、おまけとして貰った包みを取り出して開いた。すると『潜入裏風俗! ワケあり美人若妻がタコ部屋に集う売春アパートヘルスで本番交渉!!』と『美熟女たちの潮吹きアワビ!!』が入っていた。なるほど訳ありの方から良からぬ部分をすばやく切り離して、もう片方は余分な潮を吹かせてから目当ての部分を切り取り、これらも紙皿に並べた。それから居室のテーブルを片付け、手早く布巾で拭くと、そこへ「タイ」「アジ」「エビ」「イカ」「サバ×2」「サーモン」「いくら」「うに」「トロ×2」「タコ」「アワビ」が一堂に会した紙皿を運んだ。ふたたび台所に戻ってインスタントの味噌汁をお椀に作り、どんぶりに白飯をよそって、チューブ入りの本わさびをたっぷりとそこにのせ、適量の醬油を回しかけた。そしてそのわさび醬油ご飯と味噌汁、さらに一膳の箸もテーブルに運んでいった。
「いただきます」
 食卓についた時江は両手を合わせると、箸を持ち、紙皿にずらりと並んだ海鮮の文字列を味読しながら、わさび醬油ご飯をぱくぱく食べ始めた。タイは時間が少し経ったせいかカッチコチほどではなく、ほどよくコリコリとした肉感的な身となっており、アジは口の中でびっくびく仰け反るような活きのよさだった。反りかえったエビは嚙むと身の中から肉汁が噴き出てきて、白濁したイカはねっとりと濃厚な味わい、それらの合間に時江はわさび醬油ご飯を口に運び、インスタントの味噌汁を啜る。二切れ取れたムチムチのサバはほっぺたが堕ちそうな美味で、サーモンはやや気味悪いほどピンクがかっていたので脇にのけ、次にいくらを味わうとプチプチと口の中で弾け、ほどよい塩辛さの旨味がじわりと広がった。なぜか鼻血が出てきて、時江は淑やかにティッシュで拭き取り、千切った端っこを丸めて鼻の穴に詰めてから、今度はうにを玩味する。するとあまりに美味ゆえか味覚が敏感すぎるのか、全身があられもなくビクビクして、とても職場の上司には見せられない姿だった。その余韻のうちにわさび醬油ご飯をかき込み、おまけから切り取った訳ありのタコ、潮の香り漂うアワビも味読する。そして最後にいよいよ、時江はスペシャルな二切れの、肉厚のトロをじっくりと熟読玩味した。
「はあ、トロトロ……」
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 午後二時半、けたたましく鳴り出した音に時江はむくりと起床して、枕元の目覚まし時計を手に取り、側面のつまみを動かして静かにさせた。続けて携帯端末も手に取り、時間差で五分後に鳴る予定のアラームも消去すると、ベッドを降りてまっすぐに洗面所に入り、その奥の浴室のシャワーを出す。あくびをしながら下着を脱ぎ、洗い場に入りざま、ちらと洗面台の鏡へ眠たげな目をやると、やや間の抜けたあどけない表情ながらも、そこに映る顔は心なしかすっきりとしていた。
 時江はすみやかに覚醒の熱い湯を浴び、髪から下へ順繰りに泡まみれにしては洗い流すと、やがて裸体を拭き頭にタオルを巻き、さっぱりした顔つきでまた洗面台の鏡の前に立った。そっと手先をあてると頰はもちもちしており、艶やかに上気した肌は透き徹ったような質感を湛え、瞳には精気がみなぎっている。時江はそれを見てほくそ笑みながら、化粧水を両の手のひらに広げ、しっとりと顔面に染み込ませた。
 

イラスト:椋本サトコ

 

 

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次回は8月17日(木)に掌編を更新予定です!

Writing

木下 古栗(キノシタ フルクリ)

1981年生まれ。2006年に「無限のしもべ」で第49回群像新人文学賞を受賞。著書に『ポジティヴシンキングの末裔』『いい女vs.いい女』『金を払うから素手で殴らせてくれないか』『グローバライズ』がある。

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