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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

素晴らしき第28世界 石川宗生 ショートショート

『半分世界』で話題の新鋭が紡ぐ、鮮烈なショートストーリー。
本誌とウェブ、それぞれ異なる作品を毎月掲載。

本の挿絵

 ある夜、本の挿絵がやってきた。
「ちょっと悪いね、上がらせてもらうよ」
 玄関を上がり、ソファに腰を下ろすと目を閉じた。
 香草とキノコのパスタを作っていたわたしは、うしろを振り返ったままの姿勢でその一挙一動を見つめた。たしかに本の挿絵はいろんな物語に出てくるし、ある種の気まぐれさも兼ね備えているけれど、無断で上がり込まれるというのはあまり気分が良いものではなかった。
「申し訳ないんだけど、出ていってくれないかしら」わたしはしずしずと述べた。「ここはアパートだから、大家さんに見つかったら大騒ぎになってしまうのよ」
 本の挿絵はつぶらな目を開いた。「べつにお邪魔はしないさ」
 すこし考えてみたけど、あまり答えになっていなかった。
 その後も根気強く出ていってほしいと頼み込んだけど、返ってくるのはそんな答えにならない答えばかりだった。夜も遅かったので、わたしは仕方なく本の挿絵を横目にパスタを食べ、シャワーを浴びた。明日の授業の予習を済ませ、日課の編みものをした。本の挿絵はずっとソファに寝そべっていた。その静謐なたたずまいを見て、一晩ぐらい大目に見てもいいかと思い、ベッドに入った。でも、それがいけなかった。
 翌日の夕刻、大学から戻ってきたあとも本の挿絵はまだ部屋にいた。しかもソファではなく、わたしのベッドに寝転んでいた。
「申し訳ないんだけど」わたしはまたしずしずと述べた。「そこはわたしのベッドだし、そもそもここから出て行ってもらわないと困るのよ」
「べつにお邪魔はしないさ」
 わたしはきっとにらんだ。「今夜はボーイフレンドが来るの」
「おれはべつにかまわないよ」
「そういう話じゃないの。あなたがいたら、わたしも彼も困るでしょ」
「べつに何をするってわけでもないさ」
「ただいるだけで困るのよ……。それにあなた、ちゃんとしゃべれるんじゃない。だったらわたしの言ってることも分かるでしょ、さっさと出ていってちょうだい」
「べつにお邪魔はしないさ」
 そんな調子で都合が悪くなると、すぐ答えにならない答えを返してくる。この挿絵はずるい挿絵なのだ。
 腹が立ったので背中を揺さぶった。でも本の挿絵はびくともせず、ただベッドがみしみしきしんだだけだった。
 仕方なくボーイフレンドに電話をかけ、風邪を引いてしまったので今晩は会えそうにないと断りを入れた。彼はひどく心配して、看病しにいくと言ってきた。寝てればよくなるから、大丈夫だから心配しないでと断ったが、よけい後ろめたさが募った。
「必ず今晩中に出ていってもらいますからね」
 電話を切ったあとも、また本の挿絵に何度となく声を荒立てたが、やはり目をつむったままずるい答えばかり返してきた。
 すこし頭を冷やそうと編みものをしていると、しばらくして玄関の扉がたたかれた。すこしだけ開けると、隙間にボーイフレンドの顔が覗いた。
「なに、どうしたの?」
「風邪だっていうから、お見舞いに来たんだけど……」彼は困惑気味に言った。「なんだか元気そうじゃないか」
「まぁ、すこしね」
「……開けてくれないのか?」
「あの、風邪がうつるといけないし」
「べつに長居はしないよ。すぐ帰るから」
「いまはちょっと、部屋が散らかってるから」
「……もしかして誰かなかにいるのか?」
「まさか、誰もい……」
 彼の手が隙間に入り、いきおいよく扉が開かれた。わたしははじき飛ばされ、尻もちをついた。そのときちょうど本の挿絵はベッドの上であぐらを掻き、大きなあくびをしているところだった。
「本の挿絵じゃないか」彼は肩を怒らせながら言った。「どうしてここにいるんだ」
「勝手に上がり込んできたのよ」
「ベッドにか?」
「独占されたの」
「なるほど。本の挿絵がいるから、おれに会いたくなくなったってわけか。そんな趣味があるとは思わなかったよ」
 吐き捨てるように言うと、きびすを返し大またで去っていった。わたしはあとを追いかけ、本の挿絵とのあいだにはなにもないのだと必死に弁解した。けれど、彼は聞く耳を持たなかった。わたしのほうを見向きもせず自動車に乗り込み、いきおいよく走り去っていった。
 わたしはうなだれアパートに戻った。本の挿絵はまだふてぶてしくベッドに寝転んでいた。「大変だったな」右ほほをたるませ、つぶらな瞳を向けてくる。
「……ぜんぶあなたのせいでしょ」
「おれはただ、ベッドに寝ていただけだ」
 わたしはベッドに詰め寄って二本のしっぽをまとめて引っ張った。「これのしっぽ、はさみでちょん切っちゃうわよ」
「いいとも。すてきな紙細工になるんじゃないかな」
 悠長な言い方だった。わたしがそんなことするはずがないと、すっかり分かりきっている口調だ。
「ほんとに切るからね」
「いいとも。すてきな切り絵にだってなるさ」
 わたしは本の挿絵をにらみつけた。そしてきびすを返しソファに倒れ込むと、編みものもせずに明かりを消した。

 翌日から大学の授業が終わったあと、売店で買ったサンドイッチを食べ、閉館時間ぎりぎりまで図書館で勉強するようになった。勉強の合間にボーイフレンドにたびたび電話をかけたけどまったくつながらなかった。
 本の挿絵と顔を合わせたくなかったけど、ほかに行く当てもないし、お金もあまりないのでアパートに帰らざるをえなかった。いつ玄関の扉を開けても、本の挿絵はペーパーウェイトのようにベッドに留まっていた。週末、わたしが掃除機をかけ、洗濯物をほしているあいだても悪びれる様子もなく、いつまでも気持ちよさそうに目をつむっていた。
 夜半のことだった。わたしが新たな寝床となったソファで明日授業で使う本を読んでいたとき、本の挿絵が珍しくベッドから立ち上がった。り、床にすたっと降りると、四本の指でドアノブをひねりユニットバスに入っていくった。水の流れるような音が聞こえてきて、一〇分ほどで扉が開かれた。またベッドに上がり、何事もなかったかのように横になった。毛先がところどころ湿って束になっている。
「ねぇ」とわたしは声をかけた。「もしかしてシャワーでも浴びたわけ?」
「そうだ」
「人には気を遣わないのに、自分のことはけっこう気を遣うのね」
「きれい好きなんでね」本の挿絵は目をうっすら開けた。「悪いけど、バスタオルも使わせてもらったよ」
「どのタオルを」
「青いやつだ」
「……青はボーイフレンドのなのよ。彼が持ってきたものなの。ついでに言っておくと、その枕も彼が買ってくれたものだし、シーツもあなたじゃなくて彼のために取り替えたばかりだったの」
「べつにお邪魔はしないさ」
 わたしは本を閉じた。腕を組み、足を組んだ。「そういえば、あなたってどうやってごはんを食べてるの?」
「狩りをしてる」
「いつ?」
「お前さんが寝てるあいだに」
「でも、どこで」
「森だ」
「……大学の裏の?」
「そうだ」
「なにを狩るの?」
「シカとかキツネとか」
「へぇ、いいわね。お肉なんて最近ぜんぜん食べてないし、お腹いっぱい食べてみたいものだわ」
「ついでにおれが獲ってきてやるよ」
 ちょっとした皮肉を言ったつもりだったのに、予想外の答えが返ってきてわたしのほうが口をつぐむことになった。
 わたしの返事も待たず、本の挿絵はベッドからさっと降り、わたしの目の前をすたすたと歩いていった。本の挿絵をこんなにも間近で見るのははじめてだったので、その迫力にあっけに取られてしまった。
 玄関の扉が閉まってから三〇分と経たないうちに、本の挿絵が大きな肉片をくわえて戻ってきた。肉片塊からはまだ赤い血が滴っていた。本の挿絵は挿絵なりにの気をきかせてくれたのか、室内に上がろうとせず、玄関先に突っ立ったままこちらを見つめていた。わたしはキッチンペーパーを何枚も重ねて、そのうえに肉を受け取った。
「これはなんのお肉?」
「シカだ」
「ほかの部分はどうしたの?」
「食べた」
「食べたって、シカ一頭をぜんぶ?」
「あぁ、だからもう動けそうにない」
 それだけ言うと、わたしの横を通り過ぎ、またベッドの上で丸まった。
 
 明くる日の午後、大学のキャンパスでボーイフレンドがほかの女の子と手をつないでいるところを目撃してしまった。わたしは図書館に駆け込み、勉強机に突っ伏してひっそりと泣いた。
「つまりは、振られたんだろ」
 その日の晩、シカ肉のクリームシチューを煮込んでいたとき、本の挿絵に言われた。本の挿絵なんかに愚痴をこぼした自分が悪いのだけど、あらためて言われると腹が立った。ただ、腹が立ったといっても不思議なことにすこしだけ。
「……つい一ヶ月前まで、このアパートにはルームメイトがひとりいたの」わたしは淡々と述べた。「わたしと違ってとっても元気な、話の面白い女の子だった。でも、彼女はわたしといると息が詰まるといって出ていってしまったの。わたしが遊びもせず、勉強ばかりしているから、話がぜんぜん合わないからって」
「そうか」
「でもそのかわりに、ボーイフレンドが、自分が越してくるよって言ってくれたの。シェアハウスに住んでるんだけど、ルームメイトとうまくいっていないから、ちょうど引っ越しを考えてたとこなんだって言ってね。だからわたしもそのうち彼が越してくるのを楽しみに待ってたんだけど、結局、彼もいなくなってしまった……。そしていまは、あなたがいる。家賃も払わない、寝てばかりのあなたが」
「べつにお邪魔はしないさ」
 わたしは静かに笑った。「でも、現実はすこし残酷よ。ここの家賃は高いし、わたしひとりだと払い続けられないから、そのうち出ていかないといけない。この生活もおしまいにしなきゃいけないのよ、わたしも、あなたもね……」
「だったら、ドライブにでも連れていってやるよ」
 それはいつもの答えになっていない答えだろうか。
 わたしが返答に困っていると、本の挿絵はベッドからひょいと飛び降り、わたしのまたしたに大きな頭を入れ、わたしを軽々と持ち上げた。もこもこした毛がこそばゆくて、わたしはくすくす笑った。そしてエプロンの裾が本の挿絵の顔にかぶさったのを見て、大きな笑い声まであげてしまった。
 本の挿絵はわたしを背中に乗せたままアパートを出ると、街灯の明かりに照らされた公道を疾駆した。徐々に速度をあげてゆき、ひと気ない裏路地を抜けて、影深い森に飛び込んだ。すさまじい速さなのに、本の挿絵もわたしも枝葉にかすりもしなかった。ブナもシラカバもカエデも王様の行進に合わせ、通り道を作ってくれているかのようだった。
 森の奥まできたところで本の挿絵は速度を落とし、やがて止まった。あたりはしんと静まりかえっていた。「なにかいるの?」ぴんと立った耳のなかに、ささやきを吹き込んだ。
「いいものをみせてやるよ」
 本の挿絵は小声でそう言うと、わたしを茂みのそばに下ろした。それから身をかがめ、黄昏に伸びゆく影のようにゆっくりと慎重に木々のあいだを進んでいった。
 本の挿絵の視線のさき、厚い枝葉の天蓋から漏れるやわらかな月明かりのなかで、一匹の野ウサギが跳ねていた。本の挿絵は瞬く間に距離を縮めると、矢のような鋭さで獲物に襲いかかった。ベッドで寝てばかりいた本の挿絵とはまるで別人で、一思いに首ねっこにを噛みつき息の根を止めてしまった。
「お見事」
 わたしがそうつぶやくと、本の挿絵は首をわずかにかしげてみせた。

 それからわたしは毎晩のように、本の挿絵に誘われるがまま森を疾駆した。
 声をかけられるタイミングはてんでばらばらで、真夜中のときは夢か現かはっきりしないまま闇夜に繰り出すことになった。本の挿絵が大地を蹴るたびにひんやりとした風が頬をなで、幾重もの闇のベールが次々と開かれていった。目に見えるものが現と分かるころには、見慣れた世界ははるか後方に置き去りにされ、本の挿絵とふたり鬱蒼とした森の奥にたたずんでいるのだった。
 ドライブのあとにはたびたび動物を狩った。あるときは野ねずみネズミを、あるときはシカを。またあるときは、巨大なカリブーをも大格闘のすえに沈めた。もっとも、百発百中というわけではなく、あと一歩のところで逃してしまったり、鋭い爪が空を切ることもままあった。わたしが狩りの邪魔になっているのではないかと思い、じっさいに尋ねたこともあったが、本の挿絵は相も変わらずの調子で答えてくれるのだった。
「べつにお邪魔はしないさ」
 そう、彼はわたしを邪険に扱うどころか、わたしが興味をもって尋ねさえすれば、実にさまざまなことを教えてくれたのだ。闇を駆ける方法、夜目を利かせる方法、木々の並びを読む方法、獲物に近づく方法、飛びつき方、おさえ方、噛みつき方……。森での彼はふだん以上に寡黙で、静寂に染み入るような小声でぽつりぽつりと指南してくれた。要領の悪いわたしに呆れることなく何度も繰り返し、丁寧に。無骨に思えた態度は、実のところやさしさにあふれていた。無関心そうに見えた目つきは、実のところ思いやりに満ちていた。ただ、今の今までわたしがそういう目で見ていなかっただけの話なのだ。
 だからわたしも一生懸命に吸収しようと努めた。本の挿絵が駆ける様を目に焼きつけ、見よう見まねに野ねずみネズミに飛びかかった。昼日中、大学の授業でうつらうつらしているときも闇を疾駆する夢を見た。夜、ソファで横になったときもいまださめやらぬ狩りのイメージを抱きながら目を閉じた。
 そして数週間と経たないうちに、わたしは森を全力で駆けられるようになり、なった。ついには小さな野ウサギをひとりで仕留めることもできた。わたしが生温かい獲物を口にくわえ戻ってくると、彼は歓喜の雄叫びをあげ、大きな顔をわたしの頬にこすり押しつけてきた。わたしもせめてものお礼に、芥子色のポンチョを彼の背中にかけてあげた。前のボーイフレンドにあげるために編んでいたものを、彼のために編み直したのだ。
「悪くないね」彼は悦に入ったように首をかしげた。「まったくもって悪くない」
 わたしの寝床がベッドに戻ったのは、その夜のことだった。もこもこの毛並みにすっかり慣れていたからか、彼と横になることよりも、冷たいシーツの感触のほうがずっと新鮮に感じられた。

 でもそれからしばらくして、彼はアパートにやってきたときとおなじように、何の前触れもなくすがたをくらましてしまった。ただ、波打つシーツのあとだけを残して。わたしもほどなくして、家賃の安いシェアハウスに引っ越した。ルームメイトとすこしずつ仲良くなり、いくつもの試験を受けて、また長い歳月が過ぎた。
 けれど、わたしはいまでも勉強に疲れたとき、寝つけないとき、ルームメイトを起こさないようそっと部屋を出て、風になる。
 奥深い森のなか、冷たい夜気に神経を研ぎ澄ませ、木々のあいだを駆け抜ける。ウサギを、ネズミを、ネズミを狙って滑空してきたフクロウを仕留める。皮膚を引き裂き、なま生温かな生き血でのどを潤して、恍惚の咆哮をしじまに響かせる。そのこだまにはっと我に返り、耳を澄ます。目を凝らし、笑う。笑う、凛とした闇夜に向かって。そしてまた大地を蹴り上げ、真っ白な朝が迎えにくるまで夢と現のあいだを幾度となく駆ける。
 それが、彼が残してくれたもの。
 このわたし。

Writing

石川 宗生(イシカワ ムネオ)

'84年千葉県生まれ。'16年「吉田同名」で創元SF短編賞を受賞。'18年、受賞作を含む単行本「半分世界」でデビュー。

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