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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

人間界の諸相 木下古栗 掌編連載

アメトーク読書芸人で取り上げられ注目を集める木下古栗。
ナンセンスの極北を描く鬼才による初の掌編連載。(ときどきエッセイも公開。)

次回は10月17日(火)に掌編を更新予定です!

或るリスクテイカーの死

 精神科看護師、山森正太郎は引き締まった筋肉質の裸体を闇に曝しながら、左右の手でマンション五階に位置する自宅ベランダの手すりを握り、金属製の柵の外側に宙吊りにぶら下がって、自分自身を持ち上げる懸垂運動を始めた。逞しい人体の重みがゆっくりと上下するのに合わせ、しっかりと屈伸する両腕が小刻みに震え、みなぎる力を振り絞るたび、んふっと悩ましげな喘ぎが喉奥から漏れる。向かい合う室内には飼い猫のサヴァスが無垢な瞳を輝かせて鎮座しており、閉じられたガラス戸越しに、興味深そうに飼い主の際どい筋トレを眺めていた。
 その直後、サヴァスがちょっと驚いたように目を見ひらいた。さらに次の瞬間、ドスンという鈍い衝突音が地上の方で響き、手すりにぶら下がる姿は跡形もなく消えていた。サヴァスは束の間、動揺したように目をきょろつかせていたが、急にくるりと身を翻して少し離れた出窓に颯爽と飛び乗ると、そこのレースカーテンに下から頭を突っ込み、玉袋のしぼんだ尻隠さずの格好で、窓越しに薄暗い眼下を眺めた。ぼんやり街灯に照らされてこそいるものの、夜の地上との距離は測りがたく見えた。
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「ニャー」とサヴァスは小さく鳴き、また身を翻して床に飛び降りたかと思うと、今度は部屋の反対側の片隅に走り、少し後ろに引かれたままの椅子に飛び乗った。まだ微かに温もりの残る座面を確かめるように踏み締めてから、背もたれにぞんざいに掛けられた湿ったバスタオルに鼻先を近づけ、くんくんと匂いを嗅ぎ、しきりに嚙みつく。咥えたまま半ば引きずり下ろして、なおも囓ったり踏んだりするうちにするりとそれは床に滑り落ち、サヴァスはにわかに我に返って、ふと斜め上の、液晶一体型デスクトップPCの置かれた机を見やった。そしてひょいと一段、そこへ乗り上がった。すると点けっぱなしの大画面には動画共有サイトが映し出されており、手ぶらで高層建築の建設現場に登った三人の白人青年たちが、およそ怖じ気づく素振りもみせず、その足場で見事な逆立ちをしてみせたり、手すりから身を乗り出して遥か地上を覗き込んだりする映像がまさに流れていた。それは右上の枠にまとめて表示された再生リスト「yabai」の中のひとつで、タイトルに「climb」「tower」「crane」「insane」「extreme」「heights」などの入った動画が他にも幾つか、順繰りに自動再生されるのを待っていた。さらにその枠の下にはアルゴリズムによって選出されたお勧めの、視聴回数の多い衝撃映像の類の並びも見えた。
 サヴァスが明らかに気を惹かれてじっと映像に眺め入るうちに、青年の一人がこともなげに手すりを跨ぎ越え、両手でその横棒は握りながらも、自身の背面に何の囲いも介さず、縁ぎりぎりに足先を置いて立ってみせた。そしてカメラ目線でにやりと笑うと、ふっと足場から両足を離して、地上の街並みが薄く小さく見えるほどの高みにぶら下がった。するとサヴァスは肉球に滲んだ汗を握るように爪先にぐっと力を込め、青年が不敵な笑みのまま下顎を強張らせ、命知らずの懸垂運動をし始めた途端、もう堪らず反射的に、オイとばかりに右の前足を突き出した。するとその前足が着地の瞬間、つるっと滑って傍らの小ぶりの無線マウスの横っ腹にぶつかり、弾かれた無線マウスも滑って床に落っこちた。サヴァスはその音にびくっとした。と同時にその衝撃で何らかの操作が加わって、映像が不意に切り替わった。またびくっとしてサヴァスが画面を見やると、そこにはどこか海外のサバンナの、シマウマ二頭の姿が映し出されていた。
 スピーカーから吹き荒ぶ風音が響く風景の中、シマウマの一頭がそろそろと草むらを歩き、もう一頭がぴったりとその後ろについていく。とそこで、後方のシマウマがひょいと両の前足を上げて前のシマウマの背に押っ被さり、その勢いのまま、細長く勃起したペニスをするりと巧妙に相手に挿し入れた。「ワーオ」と撮影者は驚きの声を上げたが、挿入された雌は無言のまま、のしかかる重みを逃すようにとことこと歩き続け、その動きに合わせて雄も乗り上がったまま、しっかりと後背位を維持しつつ、よちよちと後ろ足だけの歩行でついていく。いずれの腰も一切振られていないが、互いの先行と追随の微妙な足取りのずれによって、接合部に若干の摩擦が生じているようにも見え、とりわけ雄の方の尻尾だけが、激しく興奮したようにしきりに横に振られていた。
 数秒後、不意に雄だけが立ち止まり黒々とした数十センチのペニスが引き抜かれたかと思うと、その両の前足が地面に下ろされるのと同時に、いきなり雌のヴァギナから大量の精液がドバーッとダムの放水のごとく溢れ落ち、その間もとことこ歩き続けるのに従って、地面にバシャーッと白い線を描いた。
 その時、サヴァスは飼い主の落下など早くも忘れ去った驚愕の表情で、画面にのめり込まんばかりに額を近づけ、まじまじと映像に見入っていた。「オーマイガー」と撮影者の声がした。
 

イラスト:椋本サトコ

 

 

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生成不純文学

次回は10月17日(火)に掌編を更新予定です!

Writing

木下 古栗(キノシタ フルクリ)

1981年生まれ。2006年に「無限のしもべ」で第49回群像新人文学賞を受賞。著書に『ポジティヴシンキングの末裔』『いい女vs.いい女』『金を払うから素手で殴らせてくれないか』『グローバライズ』がある。

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