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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

人間界の諸相 木下古栗 掌編連載

アメトーク読書芸人で取り上げられ注目を集める木下古栗。
ナンセンスの極北を描く鬼才による初の掌編連載。(ときどきエッセイも公開。)

幻の淑女(3)

「やっぱり、牛乳寒天のお店を出すために、住み込みで修業とかしてるんじゃないかな」と栗美はまた推理顔になった。「それか、MBAを取るために留学したとか」
「住所も連絡先も知らないけど、一時的に実家に帰ってるだけっていうのはありえるんだよね」と咲子は聞き流してつぶやき、ようやくフォークを手に料理をつついた。「ただ、それなら何で、事前に連絡もなく、電話番号が使われておりませんって……」
 栗美もフォークをまた持って、突き刺したままだった揚げ物を口に入れた。もぐもぐ咀嚼して嚥下するなり、泡の衰えてきた液体も口にして、そのグラスをしみじみと眺めた。「時江、ここでこうやって、おしとやかに物静かに、一人で飲んでたって……」
「想像できないよね」と咲子も相鎚を打つなり、薄ピンクの液体を口にした。「私たちと飲んでる時はいつも、世界的な有名人と知り合いだって法螺吹いたり、下らない馬鹿話ばっかりしてたのに……」
 栗美はこっくりと頷き、山羊のチーズを手でつまんだ。口に放り込みながら、卓上に置かれた画面に映し出される時江の恥丘写真を横目に見やった。咲子は左手の指先でその作品群を順繰りに送って眺めていた。ときおり懐かしげに、割れ目に沿って縦になぞったりもした。
「そう言えば、この写真展の時も、色んなメディアから取材依頼が殺到したけど全部断ったって時江言ってたけど、あれって」
「噓に決まってるでしょ」と咲子は言った。「でも時江って、写真はともかく、文才はけっこうあると思うの」
「文才?」
「うん。あの例の、精神科病院って急患受け付けてないから夜勤がそこそこ暇みたいで、患者さんに呼び出されても、お薬飲んで寝ましょうねって、睡眠薬飲ませて寝付かせるだけって言ってたでしょ? だから本当は駄目なんだけど、夜勤のもう一人の相手が生真面目じゃなければ、暇な時間はこうやってネット見たりとか、全然できるらしくて」と咲子は携帯端末を手に持ってみせた。「それである時、私が夜行バスで京都に旅行に行く日がちょうど時江の夜勤と重なってたから、じゃあ私なかなか寝れないし、暇だったらちょっと夜中に遣り取りしてみようよってことになって。この話もうしたっけ?」
 栗美は首を振った。
「それでね、どうでもいい遣り取りを何回かしてるうちに、それでも私眠くなって、もう寝るねって寝たの。そうしたら、朝起きたらやっぱり暇だったのか、それか休憩中にずっと書いてたのかな、こんな超長文を送りつけてきてて」
 咲子は画面にその文章を呼び出した。「ちょっと見ていい?」と断って栗美はそれを読み始めた。目を通している間、咲子は料理をつつき、すらりとしたグラスを傾けた。
「何これ? 時江が主人公の、小話みたいになってるね……」
「その夜中にどうでもいい遣り取りしてた時、時江って夜勤とかあって不規則な生活してるのにいつも肌艶が綺麗だよね、何か秘訣でもあるのって私が聞いたの。だから多分、それへの返事をお話風に書いて寄こしたんだと思う。はぐらかされて、返事になってないけど」
「ふうん」と栗美は横髪を耳にかけた。「でも、たしかに素人にしては文才があるかもね。ちょっと文章が荒いけど、磨けばものになるかも」
「でしょ?」と言って咲子は紙ナプキンで唇をぬぐった。「それに、自分を主人公にしてるんじゃなくて、私を……あっ!」
 咲子はいきなり小さく叫んだ。その声がBGMもない店内に響き、店主らしき女と離れた席の二人客の目をいっせいに引きつけた。
「どうしたの?」と栗美が訊ねた。
「ちょっと待って、まさかとは思うんだけど……」
 咲子は心なしか急く指先ですばやく携帯端末を操作して、写真共有SNSを起動した。次いでその検索窓に「渋崎咲子」と打ち込むと、それがプロフィール欄に名前として記載されているアカウントが検出された。咲子はそのアカウントを画面にひらいた。投稿された写真がずらりと陳列されて現れた。ざっと視線で舐めるなり、まず最新の一件を画面いっぱいに映し出した。少し下へスクロールすると投稿時間は「二日前」とあった。その瞬間、咲子は隣の二の腕を肘で小突きまくった。山羊のチーズを囓りながら怪訝そうに横目に眺めていた栗美はびくっとして、にわかに顔を寄せて覗き込んだ。
「いた、時江いた」と咲子は強張った声で囁いた。その手に持って見せつけた画面には、短く刈り込まれた金髪頭の、花びら型の縁飾りのあしらわれた派手なサングラスをかけた時江がことさら気取った顔つきで、トロピカルジュースのストローを咥えている写真が映し出されていた。
「これ、時江?」と栗美は不審そうに目を凝らした。「金髪になってるね……しかも五分刈り……」
「このアカウント、今さっき思い出したんだけど結構前に時江がふざけて作ったの。プロフィール欄だとほら、私の名前になってるけど、それは時江が、私の名前を騙って、虚飾にまみれたライフスタイルを顕示するっていう、そういうコンセプトでやり始めて。でも所詮、単なる悪ふざけだったから、ちょっとしたら私はもう見なくなって、その存在すら忘れてたんだけど、でもほら、ここに二日前って」
「あ、本当だ」と見て確かめるなり、栗美は口もとに安堵を浮かべた。「でも元気そうでよかったね、バカンスかな?」
「何か、海外にいるっぽくない?」
 咲子は興奮冷めやらぬ様子でつぶやき、縦に一件ずつ並ぶ配列に組み替えて、時江の最近の投稿写真にじっくりと目を通し始めた。とその直後、ヒッと吸うような呻きを漏らして、とっさに画面を自分の顔面ぎりぎりに近づけ、やや腰をひねり仰け反りながら、それを栗美から隠す体勢を取った。
「どうしたの?」
「いや……これはちょっと、驚きかも……」と咲子は目を剝いて言い淀むようにしながら、画面を自分のほうへ隠したまま、一人だけでまたそれをまじまじと見つめた。それから沈痛の面持ちで眉をひそめて、重たく溜息をつき、舌先でおもむろに唇を湿らせた。「心の準備はできてる? かなり変わり果てた姿になっちゃってるけど……」
「えっ、うん」と栗美はきょとんとして頷いた。「だってさっき、もう見たけど。金髪五分刈りでしょ?」
 咲子は微かに首を振り、栗美にも見えるよう携帯端末を卓上に置いた。そして時江が撮ったらしき黒人少年の笑顔の写真の上に指先を置き、そこからひとつ下の投稿へ、さっと画面をスクロールした。その途端、そこに投稿された動画が再生され始めた。やはり金髪五分刈りの、今度はサングラス無しではっきり時江と分かる顔がうつむいたまま、首部分だけを長く伸ばした酒瓶のような形状の透明のガラス容器の、その細長い首の最上部の口に、尺八を吹く虚無僧を彷彿とさせる構えで、ややすぼめた自分の口先をしっかりと押しつけている。よく見るとそのガラス容器の、胴体部分には中程まで透明の液体が入っており、さらに胴体側面の、ちょうどその水位よりぎりぎり下辺りから別の短い管がL字型に突き出て、その先端には黒い栓のようなものが嵌められている。時江は酒瓶で言えば飲み口にあたるところに自分の口先を押しつけたまま、その胴体側面からL字に突き出た短い管のほうの先端の、黒い栓のようなものにライターを持った片手を近づけ、着火して数秒炙るようにした。すると短い管の中に、にわかにモクモクと白い煙が満ち、胴体内部の透明の液体にはゴボゴボと気泡が盛んに立って、口先を押しつけている細長い首のほうにも、白煙がゆらゆらと濃く立ち込めてゆく。とそこで、時江はライターから離した親指と人差し指でもって、短い管の先端の栓のようなものをつまみ、さっとそれを引き抜いた。その途端、透明の液体がひときわ激しく沸き立つようになり、それと同時に容器に満ちていた白煙がすーっと勢いよく駆け上がって、時江の押しつけている口の中へ、一瞬にして残らず吸い込まれた。時江は深く吸い込んだまま、微かに眉間に皺を寄せ、ふっと口を離すと、そのすぼめた口先をおもむろに丸っこくひらきながら、弛緩した表情をひろげて、濛々たる煙をゆったりと満足げに吐き出した。そしてうっとりと微笑みを浮かべた瞬間、その短い動画は終わってまた冒頭から再生され始めた。

「水煙草?」と栗美は無邪気そうに言った。
「大麻だよ、大麻」と咲子は怖い顔をして囁いた。「この大きな水パイプはボングって言って、ここの、ライターで炙ったところにクサが詰めてあるわけ。それで火をつけると、その大麻の煙がこの、水が入ってるでしょ、この水を通って、それがフィルターになってこっちの細長い上のほうに来て、それを吸うの」
「煙が水を通り抜けるんだ、詳しいね」
「時江の家の本棚に、大麻の本が何冊もあったの。道具とか吸い方もばっちり載ってて、何これってその時は笑って読んでたんだけど、まさか本当に吸いたかったとは……」と咲子は残念そうに下唇を嚙んだ。「時江、口を押しつけてるけど、これもただ押しつけてるんじゃなくて、火をつけるのと同時に中の空気を吸い込んで、この細長いほうの気圧を下げるわけ。そうするとその関係で、火をつけた方から、こっちまで煙がモクモク来るっていう仕組みだったと思う」
「へえ、理科の実験みたい」
「水がフィルターになるから、味がまろやかになるっていうか、喉が痛くならないんだって」と豆知識を披露しながら、咲子はまた指先で画面を下へ送っていった。「ほら、これで水煙草じゃなくて大麻って分かるでしょ?」
 順送りに次々に表示される投稿には、カリフォルニアらしき土地の、いかにも観光といった趣の写真の他に、乾燥大麻がたっぷり入った透明の袋を枕にして寝そべる時江、巻き煙草にした大麻を五本同時にふかす時江、どこかの絶景を見晴るかす崖の上でパイプの大麻を燻らせる時江、採りたての大麻をハワイの首飾りさながらに首にかけて笑う時江などが映っていた。さらにそれら写真の合間に、まだ新鮮そうな緑の大麻の塊でお手玉をする時江、長い鼻のところが吸引管になっている象の形をしたボングで大麻を吸う時江など短い動画もあった。
「どっぷりだね」
「コメント欄にも、他の大麻愛好者っぽいのが涌いてる……」
 ひそひそ声で話し込む二人の前に、ふたたび店主らしき女が近づいてきた。向こうの若い男二人は赤ワインを酌み交わして談笑していた。
「どうかされました? さっき何か、ちょっとお叫びになったみたいでしたけど」
 咲子は携帯端末を持って操作して、先ほどの吸引動画を見せつけた。
「時江、海外で大麻吸ってました」
   ***
 古河内栗美はワイドパンツと下着を下げて便座に座り、小用を済ませると、そのまま携帯端末を手に写真共有SNSの、咲子の名を騙った時江のアカウントを過去に遡ってしばし眺めた。そのうちに全長三十五センチほどの、柔軟にしなう感じの棒の先端に赤々と灯るLEDがはめ込まれた巨大なキーホルダーの写真が目に止まった。
「あ、これ、一緒に観に行ったアートパフォーマンスの……」
 やがて腰を上げ、トイレの外に出て、そこの洗面台で手を洗って身だしなみを整えた。傍らには細長い棚があり、そこにフリーペーパーやイベントのチラシなどが置かれていた。垂れ下がる暖簾をくぐって席のほうへ戻ろうとした時、そのすぐ向こうに座る若い男二人の会話が聞こえてきた。栗美はそっと半歩斜め後ろに下がり、束の間、その遣り取りに聞き耳を立てた。それからようやく暖簾をくぐると、奥の入口近くに座る咲子は店主らしき女とカウンターを隔てて何やら話していた。とそこで近づいてくる栗美に気付き、あ、私もちょっとお手洗いに、と椅子から降りて、微笑んですれ違って入れ代わりに暖簾をくぐっていった。
「いま渋崎さんに色々、菱野さんの逸話を伺ってたんですけど、大麻以外でも、私の印象と違って随分豪快な方だったんですね」と店主らしき女は言った。「驚いちゃって」
「そうですね」と席についた栗美はしおらしく答え、ほろ酔いの面持ちで肩越しに背後の壁の、四角いへこみに飾られた花瓶をちらりと眺めやった。「でも、あの咲子も、時江のことを話す時って、けっこう盛るから……」
「あ、そうそう。これ、渋崎さんが一緒に注いじゃっていいって仰ったので。ついさっき注文されたばっかりですけど」
 店主らしき女は栗美の前の、淡い黄金のスパークリングワインを手で示した。咲子の席の前にも同じものがあった。
「あ、いただきます」と嬉しそうに言って、栗美は美麗に泡立った液体を口にした。「美味しい。初めて来たけど、素敵なお店ですね」
「ありがとうございます」
 まもなく店主らしき女は向こうの二人連れに呼ばれて、その後、咲子が手洗いから戻ってきた。入口の扉にはめ込まれたガラス窓越しに、すっかり夜の帳のおりた外の闇が覗けた。
「ねえ、これ見て」と咲子はまた写真共有SNSの、時江の別の動画を見せた。時江は爪楊枝を竿にした小さな国旗を手先に持ち、もう片方の手のパイプを吸ってから、日の丸に大麻の煙を吹きかけて笑っていた。コメント欄には「あの国は暮らすにはいいが、生きるには窮屈すぎる」という一文が時江自身によって綴られていた。
「あの国って、日本のこと?」
「もちろんそうでしょ」と咲子はげんなりと吐き捨て、肩を落として溜息をつき、うつむけた額に手先をあてた。「何か、あんまり飲んでないのに頭が痛くなってきた……」
「あっちのお客、さっきトイレから出た時にちょっと聞き耳立てたら、片方が集英社の編集者みたいだった」と栗美はそこで話題を変えた。「何か、自社の受付嬢を就業時間中に口説いたっていう武勇伝を話してて」
「集英社って、出版社の?」と咲子は興味なさそうに言って、ちらりとも目もくれず、淡い黄金の液体をぐっと呷った。
「うん。うちの社名は英知が集うって意味で集英社だけど、実際には小さくまとまった小利口なだけの人が多いんですよ、だから意識してはみ出していかないと人間として創造性がなくなっちゃうって」
「へえ、何とも言えないね……」
 それから数分ほど、料理の残りをつつきながらしめやかに沈黙が流れた。咲子はぼんやりとした眼差しでまた、時江の投稿を過去に遡って眺め始めた。黄色い口紅をつけ、ニワトリの格好をした時江がいた。
「時江って、何だかんだ言って、面白い存在だったよね……」と咲子がぽつりと言った。
「うん」と栗美は頷いた途端、えっという顔をして咲子を見やり、口の中で「だった?」と微かな声でつぶやいた。
 咲子はそれが聞こえなかった様子で、グラスの残りを一気に飲み干すと、にわかに据わった目つきで携帯端末を睨みながら、その中に登録された時江の連絡先を粛々と消去していった。それから「帰ろっか」と吹っ切れた表情で栗美に微笑みかけて、長財布を手に持った。栗美も慌ててグラスの残りを飲み干した。集英社の編集者はその潤沢な経費を誇示するように、さりげなく万札数枚を扇子にして顔をあおいでいた。

(了)

 

イラスト:椋本サトコ

 

 

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Writing

木下 古栗(キノシタ フルクリ)

1981年生まれ。2006年に「無限のしもべ」で第49回群像新人文学賞を受賞。著書に『ポジティヴシンキングの末裔』『いい女vs.いい女』『金を払うから素手で殴らせてくれないか』『グローバライズ』がある。

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