close

物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

人間界の諸相 木下古栗 掌編連載

アメトーク読書芸人で取り上げられ注目を集める木下古栗。
ナンセンスの極北を描く鬼才による初の掌編連載。(ときどきエッセイも公開。)

幻の淑女(2)

 腕時計をたしかめてから扉を押し開けてみると、六時過ぎの店内にまだ客はおらず、打ちっぱなし風の内装にカウンター席だけで、その背後の壁に幾つも四角いへこみがあってそこに風流な花瓶が飾られていた。
「いらっしゃいませ」と店主らしき女がカウンターの向こうで微笑んだ。「お好きな席へどうぞ」
 咲子と栗美はややおずおずと手前の端っこに並んで腰掛け、椅子の下の荷物入れに鞄を収めた。そしておのずとひそめた声になりながら、そそくさと壁掛けの黒板のメニューを検討して、とりあえず「本日のおつまみセット」とお勧めのスパークリングワインを頼んだ。店主らしき女はまもなく、二人の前にすらりとしたグラスを揃え、セラーから取り出したボトルを置き、産地やら特徴やらについて簡単に説明してから、栓を抜いて慎重な手つきでスパークリングワインを注いだ。しゅわしゅわと美麗な泡が立った。「どうぞ」と各々のもとに差し出されるなり、栗美と咲子はグラスの脚をつかみ、目を見交わしてそっと乾杯して、その薄ピンクの液体を口にした。
「美味しい」とほぼ同時につぶやきが漏れた。
「美味しいですか、よかった」と店主らしき女はさっぱりと微笑みかけ、手際よくボトルに栓をして空気を抜いた。そしてそれをカウンター内側の、入口に近い方に設置されたセラーの中にしまった。
「それで、さっきの話の続きだけど……」と咲子はちらと調理場のほうへ離れていく店主らしき女を見やってから、密談っぽく口もとに手を添え、ひそめた声で話し出した。「普通に退職したっていうことは、まさか突発的な事件に巻き込まれたとかはないよね? 私、探偵にでも調べてもらおうかなとまでちょっと思って、今日もさっき、興信所のサイトとか見ちゃって」
「それは大丈夫じゃない?」と栗美も声をひそめた。「ほら、時江ってよく、実家で飼ってる犬を自分の部屋に泊めてたでしょ? そのためにわざわざペット可の物件に住んで、事前に大家さんとも話つけて。だから実家といつも繫がってるみたいだし、もし何かあったら、って縁起でもないけど、そこで発覚するんじゃないかな」
「それならいいけど……」と咲子は物思わしげにつぶやき、また美麗に泡立った液体を口にした。「その、事件ってちょっと思ったのはね、時江が前に、隣の部屋に住んでる中年の男が何か怪しいって言ってて、時江って平日が休みだったり、夜勤明けで寝てたりするけど、その隣の男も、平日にずっと在宅の気配がすることが多いんだって。今どきエントランスの郵便受けに堂々と名前出してるって言ってたから、何か在宅で仕事してる人なのかな……それである時なんて、時江が昼下がりにベランダで外眺めながら缶チューハイか何か飲んでたら、その隣の部屋から、たぶん網戸になってたんだと思うけどぶつぶつ話し声が聞こえて、それはまあ、電話でもしてるのかなと思ってたらいきなり、ビンゴって大声が聞こえてきて度肝抜かれたり、とにかく怪しい男らしいの、外廊下ですれ違ったらブレザーに短パン合わせてたり。だから私、もしかしてその男に何かされたんじゃないかって、悪い想像がよぎって……」
 店主らしき女は冷蔵庫の扉を開けながら、ひそひそと話し込む二人の様子をさりげなく見て取ると、それきり目もくれずに、てきぱきと手を動かし始めた。まず大ぶりのマッシュルームの石突きをくり抜き、その空洞を含めた傘の裏のへこみに、冷蔵庫から取り出した明太子マヨネーズのペーストをのせ、アルミホイルの敷かれたトースターに入れた。それから幾つかの保存容器も冷蔵庫から取り出して、作り置きの数品を小鉢や小皿に盛りつけていった。
「他に誰か、時江と共通の知り合いっていなかったっけ?」と栗美がなおも声をひそめて言った。「近況を知ってるような」
「いない。看護師って出会いがない、世界が狭いって時江、ただでさえいつも言ってたでしょ? でもそれで私が異業種交流会とかに連れてっても、誰とも打ち解けたりしなかったし。あれで意外と仕事振りはちゃんとしてて、おだてると単純に優しくなるから、職場の後輩には慕われてたみたいだけど」
「初対面だと、けっこうアクが強いしね……」
「うん、私もハワイの射撃場で実弾打ちまくってハイになってたからこそ、初対面でも打ち解けられたんだと思う。だから、たまたまだよね」と咲子は若干、懐かしげに言って携帯端末に指先で触れると、その画面に半年ほど前の時江の姿を呼び出した。それは自身初の写真展において、自らの恥丘写真を斜め後ろに従え、両腕を組んで気取った微笑を浮かべている姿だった。「だから……」
 店主らしき女はボウルに卵を割り入れ、そこへ細かくしたパルミジャーノとパセリと謎の粉を加えて搔き混ぜると、一口大に切ったほっそりしたちくわをその衣に絡めて、フライヤーで揚げ始めた。ぱちぱちと油のはぜる音を聞きながら、咲子は黙ってその調理風景をじっと見つめていた。そのうちにこんがりキツネ色に揚がったちくわも小皿に盛りつけ、他の数品とともに木製のお盆にのせると、店主らしき女はそれを持って近づいてきた。
「お待たせしました、本日のおつまみセットです」
 まず栗美の前に置き、それから咲子の分も運んできた。壁掛けの黒板の書き込みによれば、湯通しキャベツとじゃこと塩昆布の和え物、白トリュフ風味の鶏レバーのパテ、六種の野菜のラタトュユ、山羊のチーズと特製チャツネ、明太マヨのせマッシュルームのグリル、ちくわの洋風磯辺揚げという陣容だった。「食べられない物があったら注文の際に言ってみてください」とも書き添えられていた。
「美味しそう」
 栗美がホクホク顔でさっそくフォークを手にした矢先、咲子がにわかに決然とした顔つきになり、右手の携帯端末を握り締めて、その画面を店主らしき女へ向けてさっと突き出した。
「あの、突然なんですけど、この顔に見覚えはありませんか?」
 店主らしき女は一瞬きょとんとして、それからすんなりと画面を覗き込んだ。「あら、これってもしかして、菱野さんじゃない?」とちょっと驚いた声で言うなり、怪訝そうに咲子の顔を見つめた。「もしかして、菱野さんのお友達か何かですか?」
「はい」と咲子はすかさず頷いた。「この、菱野時江……ご存知かもしれませんけど下の名前が時江って言うんですけど、この時江が急に連絡がつかなくなって住んでた部屋も引き払ってて、調べたら職場も辞めてて、今ちょっと行方知れずなんです。それでこのお店によく通ってるって前に言ってたのを思い出して、もしかして何か、ご存知なんじゃないかと……」
「行方知れず?」と店主らしき女は鸚鵡返しにつぶやき、その場で伏し目がちに束の間、考え込むようにした。やがて目を伏せたまま、顎先を撫でつつ小首を傾げ、真剣そうに眉間に皺を寄せた。「ええと、ここしばらく、実はうちにも顔を見せなくなっていて、ちょっとどうしたんだろうって私も気になってはいたんです。ただ、最後にいらした時か、そのくらいに、もう少ししたら私、今の病院を辞めるんですとは仰っていたので、そういうお仕事の関係でしばらく足が遠のいてるのか、もしくは、それこそ引っ越したとか、それで行動範囲が変わって、もう行きつけではなくなってしまったのかな、残念だけど、なんて私も思い始めたりもしていて……」
 淀みなく、それでいて慎重に言葉を紡ぐように答えてから、店主らしき女はまっすぐに咲子、そして栗美を交互に見つめた。咲子がぐっと前のめりになった。
「何で辞めるとか、辞めて次はどうするとか、言ってました?」
「いえ……菱野さんって、いつもお一人でいらして、何ていうか、おしとやかな雰囲気で、物静かに過ごされてて。私も必ず、どんな寡黙そうなお客様でも二言三言は雑談っぽく話しかけるようにしてるんですけど、でもいつも、そのくらいのちょっとした遣り取りだけで、話が弾むっていうほどのこともなくて……精神科の看護師をされてるってことは聞いてましたし、あとお料理とか、ワインのことで多少訊ねられることはありましたけど……」
 栗美はフォークをちくわの洋風磯辺揚げに突き刺したまま、口に運ぶ頃合いを失ったふうに、カウンターを挟んでの対話を見守っていた。
「あ、でも、別の病院に転職されるんですかって私、たしか訊ねました」と店主らしき女は両手をかるく打ち合わせた。「そうそう、それで、次は決めてないけど、看護師は引く手数多だし、いつでも見つけられるからって。それで、じゃあ少し、ひと休みされてからまたって感じですかって私が言ったら、たしか、うーんって、そこは言葉を濁されてたかな、たしか……」
 咲子は耳にした情報を反芻する面持ちで小刻みに頷きながら、ちらりと栗美と目を見交わした。店主らしき女はそれきり踏み込まず離れずの態度で、口をつぐんだまま佇んでいた。しばらくの間、微妙な沈黙が漂った。するとその時、入口の扉が押し開けられた。店主らしき女は「いらっしゃいませ」と微笑んで声をかけると、恭しく咲子に目礼してから、入ってきた二人組の若い男を反対側の、遠い方の端っこへさりげなく案内した。そして壁掛けと手もとのメニューを示すうちに、そのまま色々と訊ねられて応答し始めた。

(つづく)

 

イラスト:椋本サトコ

 

 

木下古栗『生成不純文学』発売中!!

生成不純文学

Writing

木下 古栗(キノシタ フルクリ)

1981年生まれ。2006年に「無限のしもべ」で第49回群像新人文学賞を受賞。著書に『ポジティヴシンキングの末裔』『いい女vs.いい女』『金を払うから素手で殴らせてくれないか』『グローバライズ』がある。

閉じる