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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

人間界の諸相 木下古栗 掌編連載

アメトーク読書芸人で取り上げられ注目を集める木下古栗。
ナンセンスの極北を描く鬼才による初の掌編連載。(ときどきエッセイも公開。)

次回は12月18日(月)に「幻の淑女(3)」を更新予定です!

幻の淑女(1)

 自称Fカップ、古河内栗美はしどけないナイトブラ姿のままパソコン机の前に座り、二七インチの大画面いっぱいに『出会って4秒で合体』と題されたAVを再生すると、かるく温めたばかりのパン・オ・ショコラを慎重に両手で持ち上げ、サクリ、と一口頰張った。その拍子にクロワッサン生地の薄皮の欠片がぽろっと下に落ち、それが無事、パン皿に受け止められたのを視認してまた目を上げると、面前のAV世界ではやけに生活感のない居間において、ソファに腰掛けた女優がカメラ目線で撮影スタッフと談笑を交わしている。彼女の前のローテーブルには盛り沢山の飲み物、おにぎり、総菜パン、菓子類などが軽食として用意されており、メイキング映像のために本番前からカメラを向けているという説明がちょうどなされていた。「コーヒー飲む?」「あ、コーヒー苦手なんです」などと続けて遣り取りが交わされるうちにも、女優のミニスカートからパンチラが頻発していたが、そこで突然、ソファの裏に潜んでいた筋肉質の全裸男優が立ち上がって登場、まさに題名の通り、出会い頭に女優を押し倒してスカートをめくりパンティをずり下げ、あれよあれよという間に合体して猛然と腰を振り始めるのだった。
「男って、どうしてすぐにSEXしたがるんだろ……」
 栗美は気怠げにつぶやき、瞼の重たそうな目をさらに細めて結合部分のモザイクをしばし注視すると、不可能を悟ったような溜息をついてから、マリメッコのウニッコ柄のマグカップを持ち上げ、ほんのり湯気の漂うキャフェ・オ・レをごくりと飲んだ。
 その時、パン皿の脇に置かれた携帯端末が振動した。見ると渋崎咲子から「今日の夜、空いてる?」と新着メッセージが届いている。「まあまあ空いてるけど」と栗美が指先弄りで返事をすると、すぐさま「じゃあ明日月曜だし、ちょっと早めに飲もうよ」と誘いが来て、その後すぐ「会ったら話すけど、時江が消えたの」と追記があった。

「あ、久しぶり」
 袴みたいなワイドパンツをばさばさ言わせながら、栗美が伏し目がちに改札をくぐった直後、斜め前の太い柱の傍らから、咲子が手を振って声をかけた。夜に咲くような黒地に花柄のワンピースを着ていた。
「そのワイドパンツ、袴みたいだね」
「うん、大岡越前みたいでしょ」
「えっ、何それ?」
「ううん、何でもない」と栗美はすばやく首を振った。「それより、時江が消えたって?」
「ああ、そうそう」と咲子は深刻な表情で頷いた。「最後に会ったのが二、三ヶ月前で、その時、ちょっと喧嘩っぽくなって別れたんだよね。何か時江が最近、看護師の仕事に張り合いが感じられなくなってきたとか愚痴って、別のことをやりたいかもって言い出して。もしかしてこの話、もうしたっけ?」
「ううん、初耳。私もだって、咲子に会うのたぶん三ヶ月ぶりくらいだから。時江とも写真展の時以来、会ってないし」
「そう。それでね、じゃあ看護師辞めて何するのって聞いたら、牛乳寒天が好きで最近家でよく作ってるから、それ専門の飲食店を出したいっていうわけ。それもなぜか自分では店に立たないで、最初からオーナーとして、従業員を何人も雇って牛乳寒天の専門店を経営したいって。もちろんそんなの冗談に決まってるんだけど、私もお遊びでその冗談に乗っかる感じで、細かい構想を聞き出しつつ、逐一その欠点を指摘して、何ていうか、考えの甘い起業家とそれに駄目出しする厳しい投資家みたいな、そういう感じで話してたの、お茶飲みながら」
「ああ、でも本当にそういうの、たまにカフェとかで見かける。先輩起業家に相談してる起業志望者みたいな」
「うん、でも私たちの場合、あくまで冗談だったの。だって牛乳寒天専門店なんてうまくいくわけないし、ただでさえすぐ廃業する率が高い飲食店でさ。でも冗談でも段々、互いに白熱してきて、そうすると時江ってすぐ感情的になるっていうか、牛乳寒天を馬鹿にしないでよみたいになって、一方で私は冷静に理詰めで追い詰めてくから、最終的には完全に正面切って論破しちゃって、時江がちょっと目を潤ませて黙り込む感じで、すごい気まずくなっちゃって。それで、あ、このあと用があるからって私はとりあえず逃げたんだよね」
「ふうん」と栗美は横髪を耳にかけた。
「それでその後、何事もなかったように連絡しても無視決め込まれて、これはちょっと時間を置こうって思ったらそのうち、私も仕事が急に忙しくなったり、父親がリストラされてその傷心旅行に付き合ったりして、しばらく時江のこと忘れてて」
「リストラって、大丈夫?」
「うん、まあもう定年間近だったからそれが早まったと思えばね。それに十年前くらいから地道に資産運用してたらしくて、一時期かなり株価が上がったりしたから、トータルでけっこう儲かってるみたいで」と咲子は屈託なく話しながら、親指と人差し指で円をつくってみせた。「それで一昨日の、金曜のお昼にコンビニのイートインでカップヌードル啜ってる時にようやく時江のこと思い出して、でも連絡してもやっぱり無反応で、まだ無視するのって思って電話してみたら、おかけになった電話番号は現在使われておりませんって」
「解約されてたってこと?」
「うん、たぶん」と頷くなり咲子は下唇をかるく嚙んで、つかのま思案げに口をつぐんだ。「それで……どうしたんだろうってさすがにびっくりして、近くだし帰りがけに時江のマンションに不意打ちで寄ってみようかなとも思って、でもその前にふと、勘が働いたっていうか、何かこう悪い予感がして不動産サイトで調べてみたら、時江の部屋、もう空室として掲載されてて」
「ええっ」
「私もますますびっくりして、それで、思いきって時江の勤めてた病院に電話して、菱野時江の友人なんですけど急に連絡がつかなくなってって聞いたら、先月退職しましたって……理由とか詳しいことはもちろん、教えてくれなかったけど……」
 しばし黙り込む二人のまわりを駅の利用客たちが絶え間なく行き来していた。
「でも、辞めるのって、特に時江みたいに、患者さんの担当とか夜勤とかもある病院だとその関係上、三ヶ月前とかには言わないといけないんじゃないかな」と栗美はにわかに推理顔になりながら、つぶやくように言った。「となると、そのさっきの牛乳寒天の話、あながち冗談でもなかったんじゃ……」
「えっ、でも、牛乳寒天だよ?」と咲子は狼狽えた口ぶりで言って、ちろりと舌先で唇を湿らせ、そこではっと思い出したように腕時計をたしかめた。続けてすぐそばの駅構内の案内掲示へ目をやり、出口へ向かう通路を指し示した。「とりあえず、続きはお店着いてからゆっくり話さない? 六時から開くみたいだからそれと同時に行けばいいかなって思って、予約とかしてないから」
 栗美はこっくりと頷き、前に幾つも折り目の入った袴みたいなワイドパンツの、腿辺りをちょいとつまんで軽く持ち上げながら、すみやかに歩き出した咲子についていった。

 やがて咲子は手もとの携帯端末の地図案内から目を上げると、通りから脇へ入る路地の、色々に薄明かりの漏れる奥行きを睨むようにしながら、そちらを指さした。
「たぶん、あの辺りだと思うんだけど……」
「時江がいなくなる前、一人で通ってたお店なんだよね?」
「うん、そう」と咲子は先立って路地に入り、また手もとに目を落とした。「前はほら、オネエ言葉のママだかマスターだかがやってるカラオケバーみたいなところに通ってたでしょ? 私も何度か連れてかれたけど」
「ああ、よく喧嘩して出禁になってたところ?」
「そうそう。まあそれも一種の茶番みたいなキャットファイトっていうか、甘嚙みでじゃれ合ってるみたいな感じだったみたいだけど。でも、そろそろ私も淑女だからとか訳わかんないこと言って、偶然見つけたらしいんだけど、去年くらいから今から行く、その隠れ家的なワインバーに通うようになったみたいなの」
「へえ、知らなかった」
「私もその頃、時江の家でご飯食べてた時に、店の名刺がテーブルの上にあったのをたまたま見て話題にしただけなんだけど、週一くらいで通ってるって言うから私も連れてってよって言ってみたら、ここは一人で飲むお店だからって断られて、鉢合わせしたくないから来ないでよって念まで押されて。で、それも昨日、ふと思い出して、店名は何となくの印象しか残ってなかったんだけど場所はだいたい覚えてたから、この辺に絞ってワインバーで検索したら、あ、ここだって見つかって」
「ふうん」と栗美は横髪を耳にかけた。
「たぶん、新卒で入った大学病院が滅茶苦茶ハードで、夢の中でも先輩とか上司にられてうなされてたとか言ってたじゃない? 急性期の、それこそ心臓止まってる患者さんバンバン運ばれてきて蘇生したりとか、夜勤も戦場みたいだったらしいし。だからその頃は分かりやすいストレス発散っていうか、そういう感じでカラオケバーでオカマと騒いでたのが、一昨年だったっけ、あの私立の精神科病院に転職して、比べ物にならないくらい仕事が楽になって、さらにそこにも慣れてきて淑女だとか、プライベートでも調子に乗る余裕が生まれたんじゃないかな」
「何か、ボクシングジム通ったり写真展まで開いたり、すごい充実してる感じだったよね、去年辺りから」
「うん、栗美も聞いたことあるだろうけど、そこの理事長の哲学として、患者さんに接する側のプライベートが充実してないと、むしろこっちが病んじゃうって。それって結局、患者さんにもよくないから、休みもちゃんと取れるし、よく遊べっていう感じの、いい職場だったみたいよ、残業もほぼなくて」
「ああ、何かすごい理念のある理事長だって言ってたよね、ビジョナリーっていうか、旧来の精神医療とは違う、新しいあり方を目指してるみたいな。実際、リストカットなんてやり放題で、ボディチェックなしで剃刀の持ち込みとかも全然禁止しない、自由な雰囲気の病院だってよく言ってたし」
「そうそう、ホテルみたいな病院らしいよね、あんまり症状の重くない、気分障害とかの患者さん専門だからなんだろうけど。入院も個室にそれぞれ、綺麗なトイレとお風呂がついてるだとか」とそこで咲子はふと口をつぐみ、右手数歩先の、こぢんまりとした店口から放たれる明かりに視線を誘われた。そして目を大きく見ひらいた。「あ、ここだ」

(つづく)

 

イラスト:椋本サトコ

 

 

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生成不純文学

次回は12月18日(月)に「幻の淑女(3)」を更新予定です!

Writing

木下 古栗(キノシタ フルクリ)

1981年生まれ。2006年に「無限のしもべ」で第49回群像新人文学賞を受賞。著書に『ポジティヴシンキングの末裔』『いい女vs.いい女』『金を払うから素手で殴らせてくれないか』『グローバライズ』がある。

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