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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

人間界の諸相 木下古栗 掌編連載

アメトーク読書芸人で取り上げられ注目を集める木下古栗。
ナンセンスの極北を描く鬼才による初の掌編連載。(ときどきエッセイも公開。)

次回は10月17日(火)に「幻の淑女(2)」を更新予定です!

市場原理

 菱野時江は経営する牛乳寒天専門店「kantene-titi」に面した歩道に立ち、ちらと下目に腕時計をたしかめた。まだ開店一時間前の午前九時半にもかかわらず、店の前にはひとつ先の角まで長蛇の列が出来ており、その誰もが皆、見るからに牛乳寒天を食べるのが待ちきれない様子で、連れとその味や食感について議論したり、配布されたリーフレットに目を通して生唾を吞み込んだり、あるいは店頭モニターに映し出された乳牛のホルスタインの、生々しい交尾風景にじっと見入ったりしている。その映像は最下部に字幕が付き、乳用牛も人間と同じく当然、妊娠しないと乳が出ないこと、それゆえ多くは毎年人工授精させ、五、六年程度で食肉処理されてしまうこと、しかしこの店の契約する牧場では草地に放牧して雄と自然交尾させること、負担をかけすぎないよう適切な休養期間を与えていること、それゆえ十年以上の平均寿命であることなどが説明されていた。「当店自慢の牛乳寒天は毎朝、東京郊外の牧場から届く搾りたての新鮮な生乳を使用してつくられています」
 きちんと歩道の隅っこに寄った行列の中にちらほら、アジア系外国人観光客の姿も混じっているのを横目に眺めながら、時江は裏手に回ってこぢんまりとした店内に入り、大きく息を吸い込んで「グッモォーーーーーーーーーーーーーニン」と、その「モォー」のところで牛の鳴き声を真似た挨拶を響かせた。するとまさに牛乳寒天を仕込んでいる厨房、そして客席の方からも「グッモォーーーーーーーーーーーーーニン」と伸びやかに野太く、その独特の挨拶が返ってくる。調理、売り子、給仕をすべて兼ねる三人の従業員たちは制服として、白黒斑の牛柄のコック帽とコックコートを着用しており、それが立ち働く彼らの姿に小粋かつ愛らしい印象を与えていた。
 時江はすみやかにレジ奥の金庫を開け、前日分の売上を引き出すと、客席のひとつに腰を下ろしてそれを数え始めた。真剣な顔つきで注意深く紙幣をめくり、すばやく電卓を打ち、その合間に店長が運んできた本日最初の、牛乳寒天を試食用のレンゲからつるっと飲むように口に入れて、その出来を確かめる。

「うん、いい味ね……」と時江は明らかに顔がほころぶのを我慢しながら、繕った厳しめの表情で言った。味見するレンゲは三つあり、ひとつ食べるごとに、別に用意されたお冷やを飲んで味覚をあらためて、またつるっと飲むように口に入れる。時江は最後の三つ目もよく味わってごくりと飲み込み、よしとばかりに力強く頷いた。「のどごしも最高。この調子で今日も固めて」
 それからテーブルの隅の紙ナプキンを取り、口もとをぬぐって金の勘定に戻ろうとした時、傍らに佇んだままの店長が、思い詰めたような硬い表情で口をひらいた。
「あの、オーナー……」
「ん、何?」と時江は微笑んで顔を上げた。
「ちょっとお話があって、この店の今後の方向性のことなんですけど……」
「方向性?」
 店長は硬い表情を崩さず、無言で席を離れると、持ち帰り用商品の冷蔵陳列棚と一体化したレジカウンターの上から、店舗案内と商品紹介を兼ねたリーフレットを取ってきて、四折りのそれを時江のテーブルの上で開いてみせた。
 その表紙にあたる一面には「やさしい甘み 乳の濃く」という謳い文句と共に、美麗な純白の牛乳寒天の神々しい写真、そして「牛乳寒天専門店kantene-titi」という店名。二面には「私たちのこだわり」として、店頭モニターで流れる映像の字幕とほぼ同じ説明が縁取り文字で述べられており、その背景には人の手でぎゅっと搾られた雌牛の乳首の先端から生乳が激しく噴出している写真が、「※実際の搾乳は機械搾りです」という注記と共にあしらわれている。三面の品書きは専門店の名のとおり牛乳寒天のみで、店内飲食用は「和三牛寒」「ミルク&ハニー」「乳味」の三種があり、それぞれ甘味料として、高級和菓子によく用いられる和三盆糖を添加したもの、契約養蜂家から仕入れる癖のない上品な蜂蜜を添加したもの、そして文字通り、生乳の味をそのまま活かした甘味料無添加のもの─とはいえその「乳味」の場合、所望すれば適量の蜂蜜と和三盆を別皿でもらうことも可能と付記されていた。それら三種はゼリー容器に真空パックされた持ち帰り用もあり、さらに四面では「大人気!」と銘打った持ち帰り専用商品として、分厚めのゴム風船を容器とした「母乳寒天」が紹介されていた。それはてんさい糖を使用した素朴な甘みで、食べ方の説明によれば、手のひらサイズの乳房のような風船の乳首状突起をハサミで切り、そこから牛乳寒天をチュウチュウ吸引するものだった。
「たしかに、うちの牛乳寒天はこの通り、オーナーの、とにかく牛乳寒天にこだわりたいという理想に従って、かなり良い物が出来てると私も思います。うちの店の商品を食べた後、コンビニのPB商品の牛乳寒天を食べてみたらはっきり不味いと感じたくらいだし、たぶんこのレベルの牛乳寒天を出す専門店は、全国津々浦々探しても、他にはまず存在しないでしょう」と店長は淡々と言葉を選ぶように言った。「でも残念ながら、牛乳寒天って地味すぎて、わざわざ外でお店に入ってそれだけを食べたいっていう人はほとんどいません。持ち帰りだって、一個三百円を牛乳寒天に、まして何のフルーツも入ってないプレーンなやつにはなかなか出せない。たしかに素材は良い物を使ってますけど、はっきり言って牛乳寒天なんて、誰でも家で簡単に作れてそれなりに美味しく出来ますから……」
 時江は何も言い返さず、心なしか唇を尖らせながら、怒ったような顔でうつむき込んだ。
「それなのに、メニューはドリンク以外、頑なに牛乳寒天だけ。そのドリンクも牛乳寒天の甘みとコクを味わってほしいからって、無糖のさっぱりしたお茶類だけです」と店長は次第に哀しげな口調になって続けた。「毎日行列が絶えない隣のパンケーキ専門店でさえ、専門店って銘打っていますけど、カレーとかロコモコとかの食事メニューがあったり、クレープっぽい生地でサラダやハムチーズなんかを巻いたのがあったり、パフェがあったり、バリスタが淹れるラテがあったり、実際にはパンケーキを主としたカフェっていう業態です。そのパンケーキにしたって、フルーツやソフトクリーム、チョコレートとかと組み合わせて色々なバリエーションがあるし、見た目にも彩りがあったり、豪華だったり、お客さんを惹きつける要素がある。でもうちは……」
 レジカウンターを拭いているアルバイト店員がその手を止めて、緊張した面持ちで耳を澄ませていた。客席から丸見えのガラス張りの厨房で牛乳寒天を作っているもう一人のアルバイト店員も、ちらちらと心配そうに時江と店長の方を見やった。
「オーナーの目には、あの行列の人たちも本当は牛乳寒天が大好きで、まだお店で食べる習慣がないだけで、恥ずかしがってるだけで、そのうちみんな、堰を切ったように一気に鞍替えしてこっちに雪崩れ込んで、日がな一日、馬鹿みたいに行列を作り始める……そんなふうに見えるのかもしれません。でも、私たちが外に出ていくら声がけしても、リーフレットを配って勧誘しても、ぜんぜん芳しい反応なんか返ってこないし、誰も牛乳寒天を求めて来ません。開店して二ヶ月弱、一日平均、お客さんは十人から十五人がいいところ……それも他は混んでるから、座れるからってふらっと立ち寄った、歩き疲れた中高年の方とかばっかりで、まったく牛乳寒天目的じゃない……」
「それはまだ─」と時江は吐き捨てるように言い返しかけて、ぐっと下唇を嚙み締めると、何度も何度も数えた千円札三枚の売上を持った手を震わせながら、心底悔しそうに小鼻を膨らませた。「世間が、追いついてないから……」
 店長はふっと溜息をつき、子供を諭すような顔になった。
「たとえばせめて、季節の美味しいフルーツを牛乳寒天に混ぜるとか添えるとか、そういう方向はどうでしょうか? あるいはむしろ、半分フルーツパーラーになるのも手だと思います。酸味のあるフルーツがうちの牛乳寒天と合わさったら最高だし、フルーツと一緒にミキサーにかけて飲む牛乳寒天を作ったり、凍らせた牛乳寒天にフルーツを盛り沢山載せて鹿児島のしろくま風にしたり、そういうバリエーションがあったら、お客さんも呼び込めるんじゃないかと……」
「そういうのはダメ」と時江は即座に首を振り、リーフレットをかるく手先で叩いて、醒めた目をした店長をキッと射抜くような眼差しで見つめ返した。「思い出して、うちがどういうお店なのか。牛乳寒天専門店。シンプルな牛乳寒天しか出さない、こだわりを貫き通すの。フルーツを混ぜるだとか添えるだとかなんて一番安易」
 店長はにわかに苛立ちを露わにして、小さく舌打ちを響かせた。
「でもじゃあ正直、うちの店このままでいつまで持つんですか? お給料、ちゃんと払ってもらえるんですか? 慈善事業やってるわけじゃないでしょう? 私だって別に今すぐ辞めてもいいんですけど、それだと沈む船から一目散に逃げる卑怯者みたいだから、こうやって少しでもどうにかしようと、改善策っていうか、起死回生のチャレンジを提案してるんです。そりゃあプレーンな牛乳寒天がバカ売れするんならそれが一番ですよ。痛快ですよ、何せ単なる牛の母乳を固めただけのものなんだから。でも現状、それだと全然─」
「あー、もうそれ以上言わないで!」
 時江はぎゅっと目をつぶり左右の手でそれぞれの耳を塞いで、嫌々をするように激しく首を横に振った。そして眉間に深い皺の寄った悲愴な面持ちでうつむき、両手で頭を抱えながら、自分の殻に閉じ籠もるように黙り込んだ。
「オーナー」と店長が決断を促す冷酷な声で言った。
 時江は両手で押し潰さんばかりに自分の頭を抱えたまま、今にも泣き出しそうに顔をゆがめて、怯えたように肩を震わせ始めた。そして絶望的な溜息を重く吐き出した。
「ちくしょう、夢もこれまでか……」
 

イラスト:椋本サトコ

 

 

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生成不純文学

次回は10月17日(火)に「幻の淑女(2)」を更新予定です!

Writing

木下 古栗(キノシタ フルクリ)

1981年生まれ。2006年に「無限のしもべ」で第49回群像新人文学賞を受賞。著書に『ポジティヴシンキングの末裔』『いい女vs.いい女』『金を払うから素手で殴らせてくれないか』『グローバライズ』がある。

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