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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

素晴らしき第28世界 石川宗生 ショートショート

『半分世界』で話題の新鋭が紡ぐ、鮮烈なショートストーリー。
本誌とウェブ、それぞれ異なる作品を毎月掲載。

次回は、7月中旬更新予定。

小さなパズル世界

「……あらためて、ご報告が遅れて申し訳ありませんでした。というのも、今回のケースが非常に特殊なものだったからです。調査が長引いたのもそのためでした」
 探偵事務所。案内された応接間のソファで、対座する探偵が神妙な面持ちで述べる。その大儀そうな言葉を受け、わたしは差し出されたコーヒーを一口飲み、最悪の事態に備え気を引き締めた。
 妻が不倫している。
 疑いを抱いたきっかけは、勘だ。夜の営みが少なくなった。仕事の帰りが遅くなった。友人や同僚との付き合いが増えた。そういった日常のささやかな変化の集積が疑心を掻き立てたのである。
 結婚生活も六年目だし、世間一般でいうなら不倫もそう珍しいことではないのかもしれない。
 ただ、完全主義者のわたしは不完全なものが許せないのだ。
 何事もやるからには徹頭徹尾、究極の完全さを目指す。会社での資料作成は誤字脱字はもちろん、読み手が陶酔するような文章美やリズムまでこだわり推敲する。趣味の草サッカーでも究極のパスサッカーを重んじ、一縷のほつれもない一本の線につなげてゴールを目指す。スコアは五 – 一ではなく、一 – 〇の勝利を尊ぶ。二 – 一の勝利だったら、〇 – 〇の引き分けのほうが遙かにましだ。なぜなら〇は完璧だから。
 しかしだからこそ、妻が不倫していたら、と想像するのを禁じ得なかった。不倫するぐらいなら離婚する。離婚しないなら不倫はしない。いつまでも〇であり続ける。その完全性を破る不倫はそらおそろしい。
「結論から申し上げますと」しばしの沈黙のあと、探偵が重たげに口を開いた。「奥さまは不倫をされています」
 やはり。わたしはひとつ深呼吸して、息を整える。「相手は誰なんですか」
 探偵は茶封筒から一枚の写真を取り出し、差し出してくる。
「奥さまとおなじ製薬会社に勤める男性です。およそ一週間に一度のペースで密会していました。決まって平日ですが、曜日はばらばらです。仕事が終わったあと、近くのレストランかカフェで待ち合わせて、ホテルに向かっていました。カフェやレストランはさまざまですが、滞在先のホテルはいつもおなじです」
 写真にうつっていたのは、ホテルから出てきたところのふたりだ。
 厚化粧を施し、見覚えのあるモカ色のロングコートと黒のマフラーに身を包んだ妻。その目は男に向けられ、紅を差した口元が綻んでいる。男はトレンチコートと黒のニット帽、妻の背中に手を回している。年恰好は妻とおなじぐらい。かぎ鼻こそ目立つが、ほかは取り立てて特徴がない。どうして妻はこんな男に惚れたのか、腸が煮えくりかえる。
 いや、だが待てよ……「どこかで見たことのある顔だ」
「無理もないかもしれません」と探偵は居住まいを正す。「実はあなたの住むマンション、一○三号室の住人なんです」
 わたしは写真をソファテーブルに置く。「妻は会社ではなく、マンションで知り合ったということですか」
「……正直に申し上げますと、よく分からないのです」探偵は苦虫をかみつぶしたような顔で言う。「調査を進めたところ、お相手の男性は人事部の係長でした。マーケティング部に勤務する奥さまとはフロアも違いますし、年齢も出身地も大学も違います。ふたりの共通点はおなじ会社、おなじマンションだということだけです。どちらの接点を通じてどのように知り合ったのかは、定かではありません」
「なるほど」
「おなじマンションに住んでいる以上、最寄り駅も帰りの路線もおなじなのですが、ふたりはホテルを出たあと、時間をずらして電車に乗っていました。おなじマンションに住んでいることを知った上で、あえてずらしているのでしょう。ちなみに、それ以外では関わりを持っていません。朝夕ともに別々の時間に家と会社を出て、別々の電車に乗っています」
「それがつまり、さっきおっしゃっていたことですか。非常に特殊なケースだと……」
「それだけならまだいいんですが……」と目をふせる。
「まさかほかにも不倫相手が?」
「いえ、奥さまのお相手はその男性だけです。そうではなく、お相手の一○三号室に住む男性のことです。彼もまた、既婚者なんです」
「そいつも不倫か」とソファにもたれかかる。「でも、おなじマンションでそんなことが起こってるのは奇妙な話だけど、ダブル不倫自体はそこまで珍しいことじゃないでしょう。なにがそんなに特殊だっていうんです」
「……本当の問題はここからです」探偵は慎重に言う。「一○三号室の男性の身辺調査を進めたところ、実は彼の妻も、不倫をしていることが分かりました」
「はぁ」
「その不倫相手というのも、実はおなじマンションの住人だったんです。二○二号室に住む男性でした」
「そんな馬鹿な」思わず声を荒らげた。
「わたしもその事実を知ったとき、おなじような感想を抱きました。ですが、れっきとした事実なんです。一○三号室の奥さんは日頃から駅前のスポーツジムに通っているのですが、彼女の不倫相手、つまり二○二号室の男性というのが、そのジムのインストラクターだったんです」
「信じられない……」
「……なにか裏があるのかと思い、身辺調査を続けました。すると驚くべき事実が次々と浮かび上がってきたんです。いや、こうして話しているいまでもまだ信じられないのですが……」
 探偵はそう言うと、一枚の大きな画用紙を卓上に広げた。そこにはマンション全体の見取り図が印刷されている。
「これは……、わたしのマンションですか?」
「はい。あなたの部屋は三階の角部屋、三○五号室ですね」と探偵は赤のマーカーで三○五号室に点をつける。「そして奥さまは一○三号室のご主人と不倫をなさっていて、一○三号室の奥さんは二○二号室の男性と不倫をしている」三○五号室と一○三号室を、一○三号室と二○二号室を立て続けに線で結ぶ。「しかし二○二号室の男性には妻子がいて、その奥さんは三○二号室の男性と不倫しています」と二○二号室と三○二号室を結ぶ。
「いや、まさか……」
「さらに三○二の妻は二○三の夫、二○三の妻は三○四の夫、三○四の妻は一○四……」と矢継ぎ早に線を引いていく。
「ちょっと待ってください。そもそもうちのマンションはそんな都合良く男女ばかりが住んでるんですか。独り身はいない?」
「信じられない話ですが、どうもそのようです……」
「しかも」と息せき切って続ける。「それぞれがマンションとは別に、外部でも接点を持っていて、きれいに線で結べるように不倫をしていると?」
「えぇ」
「……偶然?」
「それか、なにか裏があるのかもしれない。だから今日、あなたに実際にお会いしたときに質問しようと思ったんです。なにか心当たりはありませんか?」
「いえ……、まったく」
「そうですか……」
 探偵は眉間にしわを寄せながらなおも線を引いていく。線がどんどん複雑に組み合わさり、なにかしらの文字や記号にも見えてくる。
 線は最後、一○一号室で止まる。
「これはつまり……」
「そうです」探偵はゆっくりうなずく。「残されたのは三○五号室のあなたと、一○一号室の奥さんだけということになります。しかもその奥さんというのが、意外、というか、こうなってくるとある意味では予定調和的に、あなたのごく身近にいる人物なんです……」
 ふいの静寂のなか、わたしは深々とうなずく。

 たしかに、妻の不倫は許しがたい。
 複雑に絡まった人間模様の謎も解き明かしたい。
 だがそれ以上に、完全主義者のわたしは不完全なものが許せない。
 だからわたしは仕事の帰りに一○一号室の既婚女性、つまりはわたしの勤め先の別部署で働く顔見知りの女性を夕食に誘ったのだ。
 すると彼女は小さく笑い、上目遣いで見ながらこうささやいてきた。「誘ってくれるの、ずっと待ってたんですよ」

次回は、7月中旬更新予定。

Writing

石川 宗生(イシカワ ムネオ)

'84年千葉県生まれ。'16年「吉田同名」で創元SF短編賞を受賞。'18年、受賞作を含む単行本「半分世界」でデビュー。

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