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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

人間界の諸相 木下古栗 掌編連載

アメトーク読書芸人で取り上げられ注目を集める木下古栗。
ナンセンスの極北を描く鬼才による初の掌編連載。(ときどきエッセイも公開。)

創造的破壊

株式会社集英社の若手文芸編集者、稲松叶夢は総務に電話して確保した小会議室の中、全裸で作家の原稿を読み込んでいた。作家が本気で書いてきた小説の原稿に誠心誠意、何の先入観もなく剥き出しの自分で向き合うために誰にも教わらずに編み出したやり方で、いつからかこれが稲松の「精読の流儀」になっているのだった。もちろん出入口のドアは施錠済みであり、衣服はパンツの一枚に至るまで丁寧に折り畳んで、壁際に置いた椅子の座面に積み重ねてある。稲松自身は会議机の真下に仰向けに横たわり、プリントアウトした原稿の束を顔の上に両手で持って、舐めるような視線でそこに綴られた文章を辿っていた。しかしその原稿の中で登場人物が蕎麦屋に入り、ざるそばを啜りながら所属する会社の派閥抗争について懊悩する場面を読んでいるうちに、稲松の思念が不意にどこかへ逸れていった。まもなくその行く先が判明した。それは過去の想起、まだ数年前とはいえ不思議なことにもう随分前に思えるような、学生時代の非常に印象深い出来事だった。
実は稲松自身、東北の大学で学生の身分にあった頃、蕎麦屋で週三程度アルバイトをしていた。個人経営の庶民的な店であり、良心的な値段に比して味は抜群によく、天ぷらもからっと揚げられていた。その店にまだ夕方前の中途半端な時間、他に客は誰もいなかったのだが、ガラガラと引き戸を開けていきなり、全裸の男が入ってきたのだ。「いらっしゃいませ」と明るく声を出した次の瞬間、稲松は呆気にとられて絶句していた。三十前後と見えるその男は肉体労働に従事していそうな逞しい体つきだったが、引きこもりのような色白の肌、綺麗なピンクの乳輪及び乳首をしており、陰毛は健やかな黒い炎のようで、垂れ下がるペニスは肉屋のソーセージを思わせた。「ちょっと、すみません、その格好は……」と稲松がどうにか声を押し出すと、男は椅子を引いてさっそく座りながら、怪訝な表情で見返してきた。稲松は何とも言えず、急いで奥に行って「大将!」と煙草休憩中だった店主を呼び出した。大将は四十代後半の職人気質で根は優しく、子供と女性客には人当たりがよかったが、不作法な男性客は時に厳しくあしらうこともあった。客が店を選ぶのと同様、当然ながら店も客を選ぶ。大慌てでしきりに手招きする稲松につり出されて、腰を上げた大将は客席の方に現れた。お品書きを眺める全裸の男を見た瞬間、さすがにちょっと眉を上げて驚いたが、すぐさま目の色が変わり、厳めしい顔つきで歩み寄っていった。
「おい、お前さん、その格好で俺の蕎麦を食うつもりかい?」
男は顔を上げてきょとんとしてから、ふっと笑みをこぼした。「大将、あんた目ェついてんのかい? ご覧の通り、俺には格好なんて大層なものはないんだよ」
たしかに男は紛う方なき全裸であり、あらゆる「格好」を捨てている。だがそれで気圧される大将ではなかった。
「なるほど、じゃあ言い直そう。お前さん、その素っ裸で俺の蕎麦を食うつもりかい?」
「ああ、その通り。それとも何かい? まさか蕎麦を食うのに服が要るとでも?」
「いや……」
「なら話は早い。ざるそばを頼む」
大将は重苦しい舌打ちをして、傍らの稲松をじろりと見やった。そしてレジ脇の壁掛けカレンダーの今月分を破り取り、その裏の白紙にマジックで殴り書きをして、それを稲松の胸もとに突き出した。「おい、これを表に貼ってくれ」
稲松は黙って頷き、その「急な支障のため、小一時間臨時休店いたします。しばらくお待ち下さい」と書かれた紙を出入口の戸の表側にガムテープでしっかりと貼りつけた。
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十分ほどして、いつもと同じざるそばが出来上がった。細かな黒い斑点入りのつやつやの麺はいつ見ても食欲をそそる。稲松はそれを全裸の男の席に運んでいった。だがその時、稲松はひとつの懸念を抱いた。男は全裸ゆえ財布を携帯しているようには見えない。そうとはいえ、もう作ってしまったのだから食わせるほかになかった。布巾で手を拭きながら奥から出てきた大将を見やると、依然として厳めしい顔つきを崩さず、気安く話しかけられる雰囲気でもなかった。その直後、早くもズルズルッと蕎麦を威勢良くすする音が上がった。つゆが全裸の胸に飛び散るのなど一切構わず、男はパンパンに頬張った蕎麦を三度ほどしか噛み切らずに強引に飲み込むや、またズルズルッと豪快に啜る。その粋な食いっぷりをまざまざと思い出すうちに、稲松はふと、そんな出来事など一切なかったことを思い出した。
「えっ、何だろう、これは?……」
ぽつりと呟くなり急に武者震いに襲われて、稲松は思わず会議机の下から転がり出ると、作家の原稿をほとんど無意識に背後に投げ捨てていた。そして全裸のまま小会議室の出入口に近づき、そのドアを解錠して取っ手をつかんだ。今までに感じたことのないエネルギーが体の芯から湧き出てくる。と同時に、理性や常識というものが一瞬にして跡形もなく掻き消えていくのも感じた。だが、その消失感もマグマのように横溢するエネルギーの奔流に呑み込まれた。何とも爆発的な気分だった。
「今なら、この会社を変えられる気がする……」
声帯が勝手に振動して、唐突な決意がまるで悪魔の声のように呟かれた。何かに乗り移られたような感覚が強くする。しかし稲松は気にせずある種の確信に満ちた表情で、背後に衣服や荷物を丸ごと残したまま、出入口のドアを開け放った。鼻先になぜかそば湯の香りが淡く漂った。
幸いにも絨毯敷きの廊下には誰もおらず、左に進んですぐにまた左折すると、いつも乗っているエレベーター乗り場がある。稲松は下向き三角のボタンを押して、肩甲骨周りの筋肉をほぐすように両肩を後ろにぐっと引いた。乳首が強烈に立って痛いほどだった。まもなくエレベーターが到着すると迷いなく乗り込んで一階へ向かう。だが、すいすい降下していた箱が四階で止まり、扉がひらき、別の社員らしき中年男が伏し目がちにぼそぼそと何事か呟きながら、危うく乗り込もうとしてきた。中年男は一歩踏み込んだ直後、うわっと驚き、目を剥いて震えた声で「ちょっと、あなた何?」と訊ねた。稲松は今にも相手を素手で殺さんばかりに凄まじく睨みつけながら、二十代とは思えぬ深い声で「社員ですよ、少なくとも今のところはね……」と返答した。中年男はゆっくりと頷いて一歩後じさり、そこでエレベーターの扉が閉まった。数秒後、チーンと一階に到着した。
エレベーターから降りると完全に勃起しており、すぐ斜め前に制服を着た守衛がいたが、稲松の才気溢れる脱ぎっぷりが圧倒的に堂々としているせいか、とっさには押し留められず、それどころか完全に素通りを許す間合いになってしまった。稲松は通り魔めいた顔つきで余裕たっぷりに会釈すらして通り過ぎた。そしてロビーに出て右手の、受付台に向かってすたすたと歩み寄る。そこには贅沢にも三人ものきっちりメイクを施した受付嬢が並んで座っていた。揃ってマスカラに縁取られた目を丸くしている。
「入社四年目の稲松です」と稲松は冷静に鋭く自己紹介した。「受付業務なんかさっさと機械化して、今から俺と全裸でざるそばでも食いに行きませんか?」

 

イラスト:椋本サトコ

Writing

木下 古栗(キノシタ フルクリ)

1981年生まれ。2006年に「無限のしもべ」で第49回群像新人文学賞を受賞。著書に『ポジティヴシンキングの末裔』『いい女vs.いい女』『金を払うから素手で殴らせてくれないか』『グローバライズ』がある。

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