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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

人間界の諸相 木下古栗 掌編連載

アメトーク読書芸人で取り上げられ注目を集める木下古栗。
ナンセンスの極北を描く鬼才による初の掌編連載。(ときどきエッセイも公開。)

次回は7月18日(火)に掌編を更新予定です!

位置情報

 平日も在宅のことが多く何をしているのか分からない男、平尾正樹は台所に立ち、両手でつかんだ乾麵の束に少しねじりを加えてから、それを煮え立った鍋の中心にそっと落とした。黄味がかった小麦色の細長い無数の棒たちが、ぱらりと鍋縁に沿って放射状に広がる。すかさず背後の冷蔵庫を振り返り、その扉にくっついたキッチンタイマーを操作して七分間のカウントダウンを命じると、平尾は淀みなく右手に菜箸を取り、沸騰した湯の中に麵を沈ませて、ふにゃりとし始めたそれを搔き混ぜた。その直後、傍らの流し台の上に置かれた携帯端末から着信音がした。
 菜箸を置いて画面を覗き込むと、十一桁の数字のみが表示されており、名前の登録された電話番号ではない。平尾は微かに眉をひそめてその番号を数秒眺めてから、手に取って指先で応答の操作をした。そして受話口を片耳にあてた。
「はい」
「こんにちは」と若々しい男の声がした。軽やかで明朗な口調だった。
「……こんにちは」と平尾はやや不審げに耳を澄ましながら、防御的な硬い小声で応じた。おのずから警戒心が滲み出ていた。
「今、下半身に何か穿いていますか?」と謎の男は明朗な口調のまま言った。
「……私は男ですよ」と平尾は一瞬言葉に詰まってから冷淡に答え、喉の奥から侮蔑的な苦笑を微かに漏らした。「そういうのは余所でやってください」
「余所ならやっていいんですか?」
「いや……」
「そういう趣旨の電話じゃないんですよ」と謎の男は言った。「別にいやらしい悪戯電話をかけてるわけじゃないし、同性愛者っていうわけでも全然ないんです」
「……ご用件は何ですか? この番号をなんで知ってる?」
「まあそう詮索しないでください」と謎の男は笑った。「ちなみに、こっちはちゃんとズボンもパンツも穿いています」
「そうですか」と平尾はいかにも素っ気なく言った。「じゃあそろそろ……」
「ちょっと待ってください」と謎の男は慌てて引き留めた。「これも何かの縁でしょう?」
「パスタを茹でてるんですよ」と平尾はいささか苛立たしげに言って背後を振り返り、冷蔵庫の扉にくっついたキッチンタイマーの、刻一刻と減っていく残り時間を見つめた。「あと六分二十三秒で茹で上がるんです」
「ならあと六分ある」と謎の男は不思議に力強い口調で言い返した。「手短に言いましょう。こっちは今、下半身にパンツとズボンを穿いている。そしてパンツは適度に余裕のあるトランクスですが、その上から穿いたズボンは股上が浅めの、かなり細身のチノパンです。イタリア製でシルエットは抜群にいいけれども、その代償としてかなりタイトなわけです。これが何を意味しているか分かりますか? 今、僕のペニスと玉袋は見事なまでに、右か左か、どちらかに非常に窮屈に偏っている。それがとても落ち着かない。男なら分かりますよね?」
「パスタを茹でてるんですよ……」と平尾は一語一語嚙み締めるように、芝居がかった呆れと哀れみを滲ませて言った。「あと五分五十二秒」
「分かりました、あと六分弱。それがあなたのシンキングタイムです」と謎の男は告げた。「僕のペニスと玉袋が右と左、どっちに偏っているか。それがクイズです。直接的に答えを探る質問以外なら、時間内は何でも質問してくれて結構です。つまりそれがヒントになるわけです。さあ始めましょう、時間がない」
チノパン4_web
 次第に楽しげな、しかも煽るような口調になるのを聞くうちに、平尾はふっとまた侮蔑的な苦笑を漏らした。
「なぜそんなことを当てなきゃいけないんです? あなたのペニスと玉袋がどっちに偏っていようが、そんなのは私の知ったことじゃない」
「そうかもしれません。でも、これも何かの縁でしょう?」
 平尾はまたしても苦笑した。「そろそろレトルトのソースをチンしないといけない。すいません」
「逃げるんですか?」
「何から? 何から逃げるって言うんです?」
「僕の股間のアンバランスからですよ」
「直せばいいでしょう、アンバランスなら」
「人の話をちゃんと聞いてますか? すごいタイトなチノパンを穿いてるんです。仮に今、息子が右寄りだとして、それをどうにかして逆に寄せたら今度は左寄りですよ」
「上向きにすればいい」
「竿だけならそれもありでしょう。でも、玉袋まで上に持ち上げて収めるスペースなんてないし、第一、そんなことをしたらそれもまたはち切れんばかりのもっこり具合ですよ」
 平尾は心底うんざりした様子で顔をしかめると、またキッチンタイマーへ目をやり、それが五分十五、十四、十三、十二秒と残り時間を減らしていくのを眺めた。そして肩でひとつ溜息をついた。
「なんでそんなチノパンをコーディネートに取り入れたんです? サルエルパンツは選択肢になかった?」
「サルエルパンツなんて持ってませんよ。チノパンは海外からネット通販で買ったら予想以上にタイトだったんです。セールでお得だったし、今の時代、試着しないで服を買うのはさほど珍しくもないでしょう?」
「分かりました。たしかイタリア製のチノパンでしたね? つまり少なくともイタリア標準では何の問題もなく穿かれているはずです。とすると、たぶんあなたはイタリア人の平均以上にペニスも玉袋もご立派なんでしょう。スーパーマリオもびっくりのキノコをお持ちっていうわけだ。次からはウエストが緩いのは我慢して、ワンサイズかツーサイズ大きいのをお求めになるべきですね」
「話を逸らさないでください。僕は何も股間の窮屈さを解決するための偉そうなアドバイスなんて求めていません。ただ単に右か左かどっちかに偏っていて、それはいったいどっちでしょうとクイズを出してるだけです」
「……なるほど」と平尾は感情を押し殺した声でつぶやき、空いている方の手で旋毛辺りの髪をゆっくりと逆立てた。「それを当てたらどうなるんです? 何か貰える?」
「いえ、何も」と謎の男は屈託なく言って、微かに苦笑した。「何か欲しいんですか?」
「いや、少なくともあなたから貰いたいものは何もありません」
「そうですか。じゃあ、何でもご質問をどうぞ」
 平尾は携帯端末をいったん横顔から離すと、その画面を険しい目つきで睨みつけてから、また溜息をついて横顔にあてた。そして不機嫌そうに唇を舌先で湿らせた。
「心臓のある側ですか?」
「……そういう、直接的な質問は禁止だと言ったはずです」
「あと四分ちょっとしかないんです。申し訳ありませんが、今日はこの辺でお開きにしてレトルトのソースをチンさせてください」
「話しながらできるでしょう? 何のソースなんです?」
「パスタのです」
「どんな種類のパスタソースかっていうことですよ」
「あなたには関係ないでしょう」と平尾が少しばかり語気を強めると、謎の男は明らかに黙り込んだ。平尾はまた溜息をつき、キッチンタイマーを見た。残り三分四十一秒。さらに減って四十秒、三十九秒。「あなたは……あなたは右翼ですか? 左翼ですか?」
「特に、どちらにも偏ってはいないと思いますね。もちろんニュートラルというわけじゃありませんけど、ひとくくりには言えないというか……そういう単純な分類は古いと思いますよ」
「分かりました」と平尾は不愉快そうな鼻息交じりに言って、音量を最大にした携帯端末を流し台の上に置いた。そして引き出しから料理鋏を取り出すと、それでもってレトルトのソースの封を切りながら、決然と口をひらいた。「ずばり切り込みましょう。あなたのペニスは左右どちらに曲がっていますか?」
「なるほど、なかなかいい質問かもしれませんね。たしかにペニスは曲がっている方に偏りやすいですから」と謎の男は感心した口ぶりで言った。「でも、自然にはそっちに偏りやすいからこそ、パンツやズボンを穿くときは意識的に、逆に寄せる癖がついているかもしれない。右利きのピッチャーが身体のバランスを崩さないよう、トレーニングでは左手でもボールを投げたりするように……」
「御託はいいからさっさと答えてください」と平尾は冷静に言って、レトルトのソースを深さのある皿の中に絞り出した。「ご子息はどっち曲がりですか? これは直接的な質問ではないはずです。なぜならあなた自身がひとつ前に、曲がりから現在の偏りは必ずしも導き出せないという趣旨の発言をしたばかりですからね」
「恥ずかしいな……」と謎の男はわざとらしく照れてみせた。「でも、答えましょう、左曲がりです。たぶん、右利きで右手でマスターベーションをするせいですね」
「ビンゴ!」と平尾は俄然興奮を帯びた声で叫んだ。「これで分かりました。あなたは与えてはいけない情報を与えてしまいましたね。左曲がりということはすなわち、今現在、あなたのペニスは左に偏っています。間違いなくポジションイズレフト、疑いの余地はありません」
 勝ち誇った口ぶりでまくし立てた余韻の中、謎の男は十秒かそこら、じっと黙りこくっていた。それからおもむろに、口をひらく湿った音が聞こえた。
「どうして、分かったんですか?」
「知りたいですか?」
「ええ」
「あなたはこの問題を提示する際に、偏っているのが落ち着かないと発言していました。私はそれをちゃんと覚えていたんです。そしてその後、あなたは自然には曲がっている方に偏りやすいからこそ、敢えて逆に寄せているかもしれないとも言って、姑息にも私を惑乱しようともした。しかしですよ、この二つの発言を合わせて考えれば、自然に曲がっている方に偏っているからこそ、落ち着かない、という推理が完成します。もし自然な曲がりによる偏りとは逆の方に意識的に寄せる癖があるなら、そちらこそが落ち着くポジションであり、従って、落ち着かないポジションは自然な曲がりの方ということになる。そしてあなたは左曲がりだと答えた。ということは、左に偏っているからこそ、落ち着かないということです。あなたは喋りすぎた。沈黙は金なりです。もっとも、こんな電話をかけてくる時点で沈黙もクソもありませんが……」
 謎の男はすがすがしいように息を吐き出すなり、ちょっと笑った。
「見事な推理です。シャーロック・ホームズも真っ青ですね。しかしところが、正解は右です。右に偏っているんです。だから外れですね」
「噓をつきなさい。この期に及んで負け惜しみですか?」
「噓なんてついてませんよ」と謎の男は呆れた口調になった。「いいですか、僕はさっき、窮屈に偏っていて落ち着かない、と発言しました。左曲がりだからこそ意識的に右に寄せたものの、チノパンの股間部分があまりに窮屈なせいで、それでも落ち着かないわけです。つまり落ち着かなさの主要因は窮屈さであり、偏りではありません」
「そんなさもしい詭弁を弄して恥ずかしくないんですか? あなたはどちらに偏っているかという問題を出して、その前口上として落ち着かなさをアピールし、あまつさえ私に男として共感を求めてきさえした。それなのに偏りは落ち着かなさに無関係とのたまうとは、いくら何でも卑怯すぎる」
「ちょっと待ってください、よく思い出してみてくださいよ。僕は偏り云々の前に、チノパンのタイトさを何よりもまず提示しましたよ。つまり、タイトすぎて窮屈で落ち着かない、という論理構成です。偏りはむしろ副次的な要素にすぎません。なぜなら、股間がタイトなチノパンを穿けば必然的に、どちらかに偏らざるを得ないからです。そしてどちらに偏るにせよ窮屈で、それが落ち着かないんですよ」
「そんなのは後出しで何とでも言えるでしょう!」と平尾は憤懣やるかたない口ぶりで吐き捨てた。「あなたみたいな人が増えているから、この国はどんどんダメになっていくんです。人当たりのいい物腰で口先だけ、屁理屈だけは上手いが、その実、人間として大切な芯に欠けている。一本芯が通ってないから、ペニスも曲がるんです」
「ふざけないでください。他人の人間性を否定して、しかもそれを身体的特徴に結びつけるなんてあなたこそ最低です。ペニスどころか、物の見方が救いようがないくらいに偏ってる」
「黙りなさい。第一、答えが左右のどっちだとしても、私にはそれを直接確認する手立てがない。完全にあなたの口先次第じゃないですか。そんなのはまともなやり方じゃない。初めからフェアネスなんて全然ない。量子力学よりたちが悪いと言われても仕方ないでしょう。それがあなたの本質です。仮に今からどこかで落ち合って実際にあなたの股間の偏りを私が直視したとしても、それは問題が提起されたまさにその時の偏りではない。今この時、本当は私が言ったように左寄りだとしても、すぐにでもそれを右に寄せられますから。もしかしたらもうすでに右に寄せているかもしれない。真実なんてありゃしない。仮にあったとしても、それはもう失われてしまったわけです」
「そんなに言うならこれからどこかで落ち合って。もう一回、勝負をやり直しますか? 僕は構いませんよ。ちなみに僕は今、都内にいます。そちらはどちらにいらっしゃいますか?」
「奇遇ですね、私も都内です。しかし、それ以上の個人情報をあなたに教える義理なんてありません」
「逃げるんですか? ネットを通じたリアルタイムの映像の遣り取りでも構いませんよ」
「いや、結構です」と平尾はにべもなく断った。「もし今の勝負で私が勝っていたとして、その二度目の勝負で負けたら、勝率が下がる。私はあなたのペニスは左に偏っていた、つまり私が勝利したと確信していますが、仮に答えが右だったとしても、それを確認しようがないやり方で勝負を挑んだ時点で、あなたの負けです。公正さの観点からみて、どう考えても失格ですからね」
「僕は噓なんてついてません、天地神明に誓って右に偏って─」
 平尾は通話を終了した。そして冷たいソースの入った皿にそそくさとラップをかけ、電子レンジに入れて加熱し始めた。その直後、キッチンタイマーがけたたましく鳴り、それを止めると、茹で上がった麵をざるにあけて水気を切った。さらに三十秒ほど待つと加熱が終わり、シーフード・トマトソースの入ったその皿を流し台に置くと、そこへ麵をあけ、フォークで慎重に混ぜ合わせた。
「まったく、馬鹿者めが……」
 そう小声で吐き捨てながら、一糸纏わぬ平尾はくるくるとフォークに大量の麵を巻きつけ、持ち上げたそれを大口で迎えにいくようにして、物凄い勢いで貪るように啜り上げた。
 

イラスト:椋本サトコ

 

 

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次回は7月18日(火)に掌編を更新予定です!

Writing

木下 古栗(キノシタ フルクリ)

1981年生まれ。2006年に「無限のしもべ」で第49回群像新人文学賞を受賞。著書に『ポジティヴシンキングの末裔』『いい女vs.いい女』『金を払うから素手で殴らせてくれないか』『グローバライズ』がある。

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