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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

素晴らしき第28世界 石川宗生 ショートショート

『半分世界』で話題の新鋭が紡ぐ、鮮烈なショートストーリー。
本誌とウェブ、それぞれ異なる作品を毎月掲載。

次回は、10月中旬更新予定。

タイピスト〈I〉

「あそこは素晴らしいタイピストがそろってるわ。どれを選んでも大方外れはないと思う。あとは相性の問題ね。一度味わったら映画も音楽も絵画も、ボーイフレンドだって要らなくなるわよ。それに、読書さえもね」
 面白い小説となかなか巡り会えずやきもきしていた折、読書好きの友人Hに教えてもらったタイピング店に足を運んだ。
 タイピングは初体験だったのですこぶる緊張していたが、いざ店内に入ってみると、どこか親しみのある雰囲気に拍子抜けしてしまった。赤いカーペット、背の高い観葉植物、壁にはシャガールなど有名絵画の複製が掛かっている。照明は手元が見えるぐらいの明るさ。BGMはバディ・ホリーやクリス・モンテスの類いで、静寂に紗を掛けた程度の音量。そう、さながら喫茶店のような。
 カウンターの奥から出てきた黒ベストに蝶ネクタイの青年にテーブルに案内され、メニューを渡された。
 一ページ目はタイピング時間と料金。二ページ以降にA、B、Cとアルファベットが割り当てられた各タイピストの手元の写真と、使用タイプライター、得意分野、好きな小説が記載されていた。たとえば薬指が心持ち内側に曲がったタイピスト〈F〉の場合、使用タイプライターは「brother Valiant 613」、得意分野はファンタジー、好きな本は『ライラの冒険』、『図書館島』、『指輪物語』……。
 どれが良いのか見当がつかなかったので蝶ネクタイの青年を呼び出し、この手の店に来るのは初めてであることを正直に伝え、助言を請うた。
「そうですね……」青年は慇懃な調子で口を開いた。「やはり得意分野や好きな本をタイピングしてもらうのが賢明だと思います。タイピングというのはピアノ演奏にも通ずるところがあるので。その作品を心の底から慈しみ、自分なりの解釈であっても理解しているタイピストこそ、感情豊かにタイプできると言われています。ただ、長編だとどうしても時間が掛かってしまうので、初めての方はお試し感覚で短編を選ぶのが良いかもしれませんね」
 悩んだ末、幻想文学を得手とするタイピスト〈I〉を選んだ。小説は〈I〉の好みだという短編『ママ・グランデの葬儀』。まだ読んだことのないものだ。
「それでは、こちらへどうぞ」
 青年について、店の奥の階段を上がった。二階の赤カーペットの廊下には、アルファベットが割り振られた扉が等間隔に続いていた。
 通された〈I〉は縦長の小部屋で、右手には革張りの椅子、書斎机、ボックス状の機械があり、左手は白い無地のカーテンで仕切られていた。カーテンの隙間からは白いカプセル型のベッドが覗き見え、その下部から伸びる何本ものケーブルはボックス状の機械を介して、卓上のタイプライター「olivetti STUDIO-44」に連結されている。
「ここでお客様にはお休みになっていただき、そのあいだにタイピスト〈I〉にタイプしてもらいます」
 青年はタイピングの仕組みを手短に説明しはじめた。
 かいつまんで言うと、(一)体験者は「タイピング・コクーン」というカプセル型ベッドに密閉されたあと、電子膜に全身を包まれ、健康に害が出ないレベルで強制的に半覚醒状態になる。(二)「タイピング・マシン」が体験者の意識および五感情報を仮想空間内に再現する。(三)タイピストが文学作品をタイピングする。(四)「タイピング・マシン」がタイプされた文学作品の物理情報を仮想化し、仮想空間内の体験者の心身に打ち込む。(五)そのデータを物理的刺激に変換処理し、「タイピング・コクーン」を通して体験者にフィードバックして五感的な読書体験を構築する(ステップ(三)―(五)は同時並行で行われる)。
 これも小説が飽和状態に陥った昨今、読み手の体験そのものを変えようという新たな試みから発明された新興サービスなのだいう。
「なお、お客様にはタイピングのみを純粋に体験していただきたいので、タイピストはお客様が半覚醒状態になられたあとこの部屋に入り、お客様が目を覚まされる前に出ていく決まりになっています。このタイピング・サービスにおいてはタイピストの性別、容姿、声といった外部要素も不純物になりかねないので」
 それから青年は慎ましげな微笑とともにカーテンを開き、わたしをなかへと導いた。カーテンが閉められたあと、青年の指示に従ってパンプス、ブラウス、ロングスカートを脱ぎ、足下のかごに入れて、コクーンに寝そべった。背中や腿の裏に伝ってくる感触は思いのほか生暖かく、絹のようにすべすべとしている。
 すこしのち、コクーンのふたがかすかな震動とともに閉まりはじめた。密封されたあともなお、内部は薄暮のようなほの白い明るさが立ちこめている。
「それでは、どうぞごゆるりとご堪能ください」
 青年の声がどこか遠くのほうから聞こえてきたかと思うと、内壁一面に張り巡らされていた純白の薄膜が空気を抜かれたかのように圧縮され、全身を一分の隙なく包み込んだ。口も鼻もふさがれたのに、まったく苦しくない。
 と、次の瞬間、真夏の日差しめいた激烈な感覚が二の腕を、鎖骨を、小指の先端を射貫いた。「S」に「O」に「B」取り留めない文字群に眩惑されている間にも、新たな文字群がのべつ撃ち込まれる。ひじの鈍痛、きぃんという耳鳴り、舌のしびれが文字をたぐり寄せ、数珠つなぎとなる。数多の文字が蠢動し、その軋轢からママ・グランデの喪失感が熱気のごとく立ちのぼる。漏れ出る恍惚の吐息。それすら内外を巡る奔流に呑み込まれ、先に、新たに撃ち込まれた文字に融解し、流れそのものが漠々たる多幸感となって沸き立つ。
 それが約三時間後、がらんとした小部屋で目覚めたときに残っていた読後感。

「でしょう? 映画の決まったイメージとはまた違った、端っこのない広がりに満ちた体験よ。感情そのものを打ち込まれてるみたいで、思わず声を上げたくなる。作品のなかにいるみたいなのに、もやもやした非現実感はぬぐえない。でも、その微妙な距離感がまた良いのよ」
 タイピング店をすすめてきた友人Hに電話で感想を伝えたとき、彼女はそう嬉しそうに語ってきた。さらにおすすめのタイピング店を教えてくれたので、わたしもそちこちに足を延ばし、さまざまなタイピストと小説の組み合わせを試した。
 どこの店もお世辞にも安いとは言えなかったが、毎回いろいろに変化する心身の陶酔感に、ささやかながら喜ばしい発見の数々にやみつきになってしまった。たとえばタイピスト〈Q〉なら「A」と「S」の感圧が決まって強く、〈W〉は『神は死んだ』にかぎって「NIGHT」がこと克明に感ぜられる。他作品ではタイピングがどこか幼げな、しかしそれがまた愛おしくもある〈T〉、〈G〉も、なぜか『豊饒の海』であれば一様に煽情的になる。その無限にも近い組み合わせはわたしの幼気な冒険心を呼び覚まし、さらなる恍惚の境地へと駆り立てた。
 それでも初体験の巡り合わせなのか、仕事の帰りの夜道、シャワーに打たれているとき、ベッドでまぶたを閉じたとき、ふと思い出すのはタイピスト〈I〉の手触りなのだった。
 わたしはいろんな店をまわりながらも、息を継ぐようにしてはじめのタイピング店に立ち寄り、〈I〉にタイプしてもらった。未読はもちろん、既読作品でも〈I〉の手にかかれば容易に物語の地平が切り拓かれた。ランボーの詩編なら肉の焼けるにおいが漂ってきそうなほどの灼熱に身を焦がされたし、『夜のみだらな鳥』を打ち込んでもらったときにはいくつもの重畳した夢幻を垣間見、目が覚めたあともなお奇妙な非現実感の囚人になったかのように身体が打ち震えていた。
 何より〈I〉が要所要所で織りなす間合いがわたしの気に入った。時折、美しいものを前にしてはっと息を呑むかのようにタイプが止み、「X」を「Z」を「F」を丁寧にはめ込み、間隙を埋めてゆくのだ。
「たしかに、相性というのはあるかもしれません」わたしがため息まじりに〈I〉への賛辞を漏らしたとき、給仕の青年が微笑みながら言ってきた。「リズムと呼吸。ある文字、単語、文章、比喩に対して抱く質感や角度。そういった要素は打ち手だけでなく、受け手の経験や感性によるところも大きいので」
 日に日に他店から足が遠いてゆき、週日も仕事が終わりしだい〈I〉のいるタイピング店に直行するようになった。
 大勢の客で混雑しているときなどは、青年に案内されるまでのあいだメニューに載った〈I〉の指先の写真を眺め、感慨にふけった。よく手入れされた艶やかな爪、ややふっくらした指先。女性の手のようにも見えたが、それが異性であれ同性であれ、この気持ちは揺らぐまいと確信すら抱いた。
 タイピング体験後にはよく、濃密な静けさに沈んだ小部屋のなか「olivetti STUDIO-44」のキーにそっと指先を重ね合わせた。椅子の座面や背もたれに指を這わせ、〈I〉のぬくもりを求めた。けれど、いつだってキーは新品同様の光沢を放ったまま、椅子の座面にはしわひとつ寄っていなかった。〈I〉の感触はわたしのうちにしかなかったのだ。唇の湿り気に、まぶたの裏に焼きついた残像のいびつさに。指先で触れたらインクでもつきそうな全身の火照りに。
 ただ、この素晴らしい体験に理解を示してくれる人はいなかった。「本の虫の次はタイピングの虫だなんて物好きだよね」友人Jは言った。「そんな訳の分からないものにはまってないで、そろそろ恋人でも作りなさいよ」友人Kは言った。
 唯一の分かち合える相手はタイピング店をすすめてくれた友人Hだけだったが、最近は連絡が取れなくなっていた。ともするとタイピングにのめり込み、電話代すら払えなくなっていたのかもしれない。後続のわたしですら、貯金が底をつこうとしていたのだから。

 一ヶ月、二ヶ月と通い詰めるうちに〈I〉の好きな小説も、わたしの読みたい小説もすべて消化してしまった。そこで給仕の青年に面白い作品はないか尋ねてみた。返ってきたのは〈I〉の物語という思いもよらない答えだった。
「当店で働くタイピストのなかには、筆耕家を志した、あるいは志している者が大勢います。〈I〉もそのひとりで、〈I〉にしか書けない〈I〉だけの話を持っているんです。これは常連のお客様だけに特別にご提供している裏メニューですよ」
 またとない提案にわたしは飛びついた。
 そして〈わたし〉は世界を旅するネイリストとなり、行く先々で地元民や旅行者の爪を色とりどりに染め上げた。
 あるとき〈わたし〉はまっぷたつに割れた家に住む一家の娘となり、興味深げに覗いてくる近隣住民をもてあそぼうと、男を連れ込んだりすがたをくらましたりしてみせた。
 あるとき〈わたし〉は売れない筆耕家となり、ミニシアターでバイトをするかたわら知名度の低い映画を自分の小説として改ざんし、文芸誌に寄稿し続けた。
 一人称で打ち込まれる〈I〉の物語は、これまでにタイプしてもらったどの作品よりずっと生温かな息遣いにみなぎっていた。そのぬめり気ある舌を舌で絡ませ、ふくよかな頬に頬をすり寄せ、全身あますことなく重ね合わせることができた。それに、物語以上の喜びもあった。内容を問わず、わたしは〈わたし〉自身と言の葉を共有し、そこでもひとつになれたのだ。ただ、幸福感がいや増すだけ、ベッドに横たわる我が身に戻されたあと、孤独感がいっそう浮き彫りになりもした。
 それだからわたしは家財を売り払ったお金で「olivetti STUDIO-44」を購入し、部屋にこもって日夜わたしの物語をタイプした。そして完成するが早いがタイピング店に駆けつけ、給仕の青年に渡したのだ。
 彼はためらいがちに小さく笑ったあと、前屈みになって耳元にささやいた。「お客様だけの特別サービスですよ」
 その物語は、わたしがタイピスト〈I〉に小説をタイプしてもらうところから始まる。
 タイピング店に通い続けるうちに〈I〉にひそやかな想いを抱くようになり、〈I〉のタイピングそのものになりたいと切望しはじめる。給仕に頼み込み、心身をタイプライターに残してもらう。そのときになって〈I〉は実在せず、「タイピング・マシン」が創り出した仮想上の集合意識に過ぎないことを知る。
 それでも、わたしは気にしない。わたしが愛してやまないのは〈I〉ではなく〈I〉のタイピングなのだから。
 そうしてわたしはいくつもの〈わたし〉と重畳しながら、数々の顧客に文学作品をタイプしていく。熱心なリピーターにわたしの物語を注文されたときには、わたしがタイプライターになった物語をタイプする。リピーターの持ち込んだわたしの物語もタイプする。またひとり新たな〈わたし〉と巡り会えた悦びに打ち震えながら、その震動でもってカタカタと「I」をタイプし、またいくつもの〈I〉と折り重なってゆく。ここで、そこで、あらゆる物語のなかで。

次回は、10月中旬更新予定。

Writing

石川 宗生(イシカワ ムネオ)

'84年千葉県生まれ。'16年「吉田同名」で創元SF短編賞を受賞。'18年、受賞作を含む単行本「半分世界」でデビュー。

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